ウェブ新時代をゆく

ちくま新書 梅田望夫著 ウェブ新時代をゆく?いかに働き、いかに学ぶか 本日発売をbookstoreDAN錦糸町店にて5パーセント引きで購入。入り口に場所を変えた新書棚を見ても無いので、今日発売のはずなんだけど見当たらないですと店の人に聞くと、大分探し回ったあげく、今日発売だったもので、とか言いながら持ってきてくれました。

とりあえず序章の前半だけからの引用です。

「一身にして二生を経る」時代に生きるうえで大切なことは、「最初の半分」での常識(現在私たちが身につけている常識)と「あとの半分」での常識はきっと異なるはずだという想像力を抱きながら生きることだと思う。

未来は能動的に変えることのできるものだが、そのエネルギーはオプティミズムが支えるのだ。

ネットという技術の持つ性格について次の五つの点で、大きな希望を抱いているからである。
(1)ネットが「巨大な強者」(国家、大資本、大組織・・・)よりも「小さな弱者」(個人、小資本、小組織・・・)と親和性の高い技術であること。
(2)ネットが人々の「善」なるもの、人々の小さな努力を集積する可能性を秘めた技術であること。
(3)ネットがこれまでは「ほんの一部の人たち」にのみ可能だった行為(例:表現、社会貢献)を、すべての人々に開放する技術であること。
(4)ネットが「個」の固有性(個性、志向性)を発見し増幅することにおいて極めて有効な技術であること。
(5)ネットが社会に多様な選択肢を増やす方向の技術であること。

以上引用。

多分私の前半の常識に引きずられた見方なのでしょうが、これらの五つともに、それぞれ陰の面を持っており、次の見方も忘れずにいて、間違わないことが必要なように思います。
(1)ネットでも例えばgoogleに検索ニーズが吸収されるように、最大の極に向かい、一極集中する面もある。
(2)ネットが人々の「生身の邪悪さ」を匿名性の隠れ蓑の裏に顕現させ、人々の小さな悪意を弱者に集中させる落とし穴を秘めた技術であること。
(3)ネットがこれまでは閉鎖的空間の中で「ほんの一部の人たち」の間でのみ行われた悪行(例:ビールスなど)の被害を、無知な子供たちも含めて、すべての人々に波及させる技術であること。

などなど。著者は当然これらを熟知しながらも、それでも善性を見て伸ばしていくという決意がある、ということなのでしょう。
昔から、まず善意を見出そうと信じて相対するのが、外交の要諦であったように、善性を見ていこうという決意なしには、客観的な評価さえありえないのですからね。

未来は能動的に変える、というのも全くの事実だと思います。これも反面を指摘するとこうかな。能動的に変える極少数の人で建設が行われ、その成果を受動的に受け入れるだけの多数の人があり、逆に破壊しようとする人々もある。破壊を上回る建設が成功すれば生き延びるのですが、果たしてどちらが上回るでしょうか。

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