環境リスク学

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中西準子 – Wikipedia環境リスクについては、いたずらに危険性を騒ぎ立てるのではなく、リスクの程度を可能な限り定量的に評価・比較し、それをもとに合理的な対策をとるべきであると主張。そのためのリスク評価手法の確立に尽力している。

化学物質リスク管理研究センター 詳細リスク評価書詳細リスク評価書シリーズ  (英語版はこちら)
CRMは、ヒトや生態系に対するリスクが顕在化、または予測される化学物質について、科学的データに基づく詳細リスク評価書を策定し、公開しています。
詳細リスク評価書は、CRMの核となる横糸研究の成果であり、行政、企業、市民などが化学物質管理の方策を検討する際に科学的な基礎となることが期待されています。

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P63 旧厚生省は、我が国のダイオキシンについての発生源を調べることもなく、思い込みでゴミ焼却炉についての非常に厳しい規制値をつくりました。そして、ごみ処理は大規模でなければだめ、広域化しなさい、そのためにはRDF(固形ゴミ燃料)発電の効率がいいという大キャンベーンを行いました。報道されているように、RDF発電があちこちで事故を起こし、三重県では死者まで出ました。焼却炉の建設費が膨大な金額になっていますが、とくにダイオキシンによるリスクは減っていません。なぜなら、今のダイオキシンリスクは、基本的に過去の排出によっているからです。もちろん、ごみ焼却炉からのダイオキシンの排出量は少ないほうがいいに決まっています。きちんと時間をかけて焼却炉の排ガス規制をすれば、費用は数分の一で済んだでしょう。そうしても、健康リスクは変わらなかったのです。

p80 医療対策も環境対策も安全対策も、結局は人の命を救うための政策であり、そのような共通の目的のものについて、共通の尺度で評価してみる。そうすると、たとえば非常にコストがかかっている政策を一つ実施する費用で、安い方の対策は何万倍もできることが分かるのです。まだ、数値は不確かですから、それをすぐに適用することはできませんが、将来の可能性として、環境対策、安全対策、医療対策、さらには福祉対策に、国がどういうお金をどういうふうに配分するかということに使っていけるものになるでしょう。

P93 では、そもそもなぜリスクという概念が出てきたか。それまでは安全と危険という考え方しかありませんでした。あるレべル以下なら安全で、それを超えたら危険、という考え方しかなかった。物事は安全なところで管理できるのだという考え方でした。ところが、そういう安全・危険という仕分けができにくい問題が出てきたのです。一つは放射性物質で、用量―反応関係で闘値(いきち、その量以下は安全という値)が無い、つまりどんなに少量でもそれなりのリスクがありそうだと予想された。そのことから、化学物質の発がん性物質も放射性物質と同じではないかという議論につながったのです。我々がこれまでニ〇〇年や三〇〇年も、ある領域以下ならば安全だと考えて、安全管理・危険管理をやってきたことが崩れてしまった。どの領域も安全でなく、ゼロにならないリスクがあります。リスクの値が10のマイナス3乗(一生涯の問に、千人に一人の確率)かぴ10のマイナス4乗か10のマイナス6乗(一生涯の間で一万人に一人か一〇〇万人に一人の確率)か10のマイナス8乗か、どこまで行ってもそのメカニズムを認めるとリスクがあるようになってしまう。一方で、いくらリスクがあっても、レントゲンや原子力発電などに放射性物質を使わなくてはいけません。こうしたことから、リスクの大きさとべネフイット(利益)を考える見方が出てきて、リスクをある程度許容しなければならないのではないかという考え方が、一九六〇年くらいから米国で出てきました。これは革命的なことでした。

P102 リスクの定義や計算について―リスクの読み方は?
ここで、リスクを定義から見ていきましょう。
私たちが扱っているリスクの考え方では、リスクとは、「どうしても避けたいこと」が起きる確率です。ここで、「どうしても避けたいこと」を専門用語で、エンドポイントと言うのですが、それを共通にすれば同じ尺度ができます。
たとえば、発がんリスクや水俣病のリスクという時、それらはがんとか水俣病とかのエンドポイントが起きる確率を表しています。でも、この水俣病とがんをどう比べたら良いのでしょう。われわれは、それに対して、損失余命で比べるという方法を提案してきました。 

P103 死亡率というのがありますが、これは死をエンドポイントにした確率、妻リリスクです。死亡率を求めれば、リスクの大きさを測ることはわかりやすいが、死亡率は本当にリスクの大きさを表しているだろうかという疑問もあります。なぜなら、全ての人にとって、死亡率は長い蒔間を摂れば一00%であり、何もなくとも人は死ぬからです。無むしろ、早く死ぬことこそがリスクであるでしょう。そのことがなければまっとうしただろう寿命が、どのくらい短くなっているか、それがょり実態を表現したリスクの尺度と考えていい。それを損失余命と言います。例えば、われわれの計算でがんの損失余命は一ニ・六年です。メチル水銀中毒患者(水俣病患者であるが、後になって調査されたため、比較的軽症の方が多い)について調べた結果では一・八五年でした。この場合、がんの重大さは、メチル水銀中毒のそれの六・八倍となるのです。

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P139 食料危機は起きない!
世界で食料が足りなくなる、これから食糧危機が起きるという話題が、ある種のリアリティを持って多くの人に語られています。「どうではないよ」といっているのは、学者では、明治学院大学教授の神門(こうど)善久さんと、問うきょうぢあがく大学院准教授の川島博之さん以外に、見当たりません。川島さんは『世界の食糧生産とバイオマスエネルギー 2050年の展望』(東京大学出版会)で、「世界の人口増加率は低下傾向にある。また、世界人口の六割を占めるアジアの食肉需要が大きく伸びる可能性が少ないことから、穀物需要の増加も鈍化傾向にある。21世紀において人類が世界規模の食糧危機に直面することはない。食料の供給が問題となるのは、サハラ以南のアフリカなどに限定されよう」と書いています。

P140 日本で、食糧危機が盛んに叫ばれ、自給率を上げる必要性が説かれる理由のひとつは、日本での農業政策の失敗を隠すためだと私は思います。農業政策は、完全に失敗しています。農産物の生産原価が非常に高いこと、農業の担い手が激減していることからも分かります。これらは、すべて、日本の農業が抱えるこんおぽんもんぢあ、つまり、土地の所有にからむ問題の解決を避けてきたからです。なぜ自給率が下がっているかという本当の原因を探して対策をたてもせず、国民の精神的なものの期待して「国産だから安全、高いものでも買おう」という気持ちにさせようとしているのではないでしょうか。

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