そして神戸

2006年1月2日にスカイマークで羽田から神戸に。
W君のところで奥さんの揚げ物をごちそうになり、垂水のスーパー銭湯で明石大橋を眺め、N君宅で一泊。

翌日朝に六甲に登り、たまたま道路横でキジがいました。珍しいですね。s-p1080945.jpg
何回も六甲には以前に行きましたが、キジは初めてでした。

霞の先に六甲アイランドでしょうか。s-p1080951.jpg
夜には百万ドルになるんでしょうが、これではもう少し安いかな。

六甲のオルゴールミュージアム Hall of Halls ROKKO が開いてました。s-p1080971.jpg
結構迫力ある演奏を聴かせてもらえます。こんな大型のもあるんです。二階建てぐらいの大きさです。

阪神淡路大震災の記念碑が新長田駅の近く若松町にあるというのをネットで見て、近くまで行ってから随分と探してみましたら、復興住宅街の脇に、神戸の壁と一緒に小さくありました。s-p1090012.jpg
後で検索してみましたら http://www1.plala.or.jp/monument/saijo3.htm
という西條遊児さんのところで紹介されていましたので、引用させていただきます。
『長田区若松町
神戸の壁使った記念碑
明日への再建誓う

JR新長田駅の南を少し歩いた所に「ウレールアスタ若松」「アスタピア新長田駅前通り」という二つのビルが建っています。

その二つのビルは、この地域初の震災復興再開発ビルで「フレールアスタ若松」ビルの北側入り口には、戦災と震災に耐え震災復興の象徴となった「神戸の壁」の基礎部分を使用した記念碑があります。

大橋3丁目、4丁目、若松3丁目、4丁目で組織する新長田駅南大若復興協議会が建立したもので「明日へわがまち」と刻まれたステンレス製の銘板には、この地区で亡くなった17人の名前と神戸の壁の写真が添えられています。

銘板の台座は神戸の壁保存実行委員会代表の三原泰治さんが、壁の基礎部分を造形的に加工したものです。

このビルから30メートル北側にあった神戸の壁は津名郡津名町に移転しましたが、掘り出された基礎部分が地元に残ったわけです。

銘板には「私たちは、悲しみに明け暮れるのではなく、明日への再建に向けて・・・」とあり、住民の復興への心意気を感じさせます。』
おっと、今は淡路市になった私の生まれ故郷の津名町つながりもあったんですね。

夕方に南京街で飲茶しました。s-p1090023.jpg

夜にはハーバーですよね。s-p1090030.jpg

ポートタワーには頑張って欲しいですね。横浜タワーは閉鎖みたいですから。s-p1090045.jpg

これで、在来線で新大阪、のぞみ、で帰宅は何とか3日の内でした。
とっても、神戸を満喫できました。W君ご夫婦とN君にはとってもとってもありがとうございました。

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