「中高年のための文章読本」のまとめ

中高年のための文章読本 梅田卓夫 ちくま学芸文庫を走り読みしてのまとめをメモしておきます。
私なりには骨子は次のようになると思います。
あとがきから、
『「ことばを知っている」ことが、逆に、妨げになることもあるのです。ここに、中高年の人が創造的な文章を書こうとするときのおとし穴があります。
本書では、すでに「にほんご」のちからを身につけている大人が、創造的な文章をこころざすときに遭遇するさまざまな課題をとりあげて、真の自己表現へ到達するためのみちすじを<方法>として示しました。

第1章 肩書きのない一人の人間として
『<よい文章>とは、
1 自分にしか書けないことを
2 だれにもわかるように書く
という条件を満たしている文章。』(引用の都合で数字の文字を換えました)
第2章 誤れる文章観
『あなたが「象は鼻がーー」に対して「長い」と続けたくなるとするなら、頭のなかでいったん「長い」を消して見ることです。すると、あらためて「象の鼻」が見えてきます。そこから、創造的文章表現は始まるのです。』
第3章 <自分にしか書けないこと>の追求
『まず<思索する>ことが必要なのです。思い出したり、想像したり、推理したり、そういう作業を紙の上に、ときにはポツリポツリと、ときには走り書きで、記録し、消えていかないように蓄積するのが<メモ>です。そうして見えてくるもの、これが当面のところ、あなたの”全財産”なのです。そのなかに「他の人が書きそうもないこと」を見つけるのです。』
『といっても、むつかしいことを書けといっているわけではありません。日常の惰性のようにして流れている自分を、いったん否定して<まっさらな自分>を回復するところから始めるのです。』
第4章 文章は<目>で書く
『「思ったこと」より「見たこと」を』
『 イメージの断片を連ねる
<描写>を試みることによって、はじめて見えてくるものがあります。ふだんは見えているつもりでも、なんと多くのことを私たちは見落としていることか。

第5章<メモ>や<走り書き>の鮮度を生かす

中高年の人々の文章の一般的な欠点をひとことであらわすと「退屈」ということに尽きるでしょう。

第6章 文章セラピーー書くことのよろこび

人は、文章を書くことで、見失っていた<私>をとりもどすことができる。さらに、自分のかいたものを他の人に読んでもらうことで、生きるよろこびと人間への信頼を回復することができる、私はそう考えるようになりました。
ギクシャクは人を(読者を)立ち止まらせます。不整合の部分が、<ひっかかり>の感覚を呼ぶのです。ときには不快感や反発として。ときには、謎、興味、好奇心へとつながり、読者のこころをかきまわし、そそのかし、惹きつける要素とさえなります。
つまり「退屈」の正反対のものを与えてくれるのです。

以上です。

でもね、私は久方ぶりにかなりの反発を覚えながらこの本を読みました。反発の度合いでは、この10年にはなかった程の強さです。著者はかなり退屈していて、「退屈な文章を書くのはやめてよ、きらっと光るのを書いて見せてよ」と言っているように思いました。
そもそも、よい文章の定義から、「誰でも書けるもの」を最初に切り捨てている。文章とか論理に本来表せない色んなことを、枠をはめて表現せざるを得ない悩みを、著者はどうしているのでしょう。色んな思いこみを解きほぐして、分かりやすくしていく根気の要る作業を、後ろから切られているような気がします。いきなりの高みから切って捨てるのは、切られる痛みを味わった経験があるのかな、と思ってしまいます。
それに上記引用から分かるとおり、ひらかな書きがとても多い。カタカナ書きも推奨していますし、自分が新しいルールを作っているのに気づいているのかな? それならそれを明示してもらいたいのですが、言わずに勝手にしているように見えます。こんな態度を私は好きになれません。
私なら、退屈な分かりやすさは、ギクシャクとした独創性に負けない価値があっていいと思うからです。著者が最初に批判している、旧来の権威主義的な文章作法の反対をいこうとして、結局は同じ権威主義的傾向に立ってしまっているのではないでしょうか?

まあ、あれやこれや、年寄りは短気になる、とか聞いていましたが、自分のこの本に対する腹立ちを見ると、これがそうなのか、と自戒する次第です。

カテゴリー: パーマリンク