ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る (光文社新書) 梅森 直之 (著)の感想をいくつか。
第二章から
『発明された日本人』
自然に在ったものでなかった。こういう考え方は、びっくりしますね。そうかもね。ずいぶん以前に「人麻呂の暗号」などを読んだ時にもあった、国家成立以前に国民意識は無かったろうという指摘にはうなずいていたのでしたが、これはそれどころではない。ナショナリズムがこんなに時代的に近く成立したものだろうという指摘は、刺激的です。おっと、近いとかの、時間的意識自体がそうなんだ。時間感覚がとってもナイーブというか、哲学など色んな味付けによって全然違う感覚になるのは直感的に理解はします。
『(前略)「なぜ?」。この感情の叫びに、本質主義はこう答える。「それはあいつが女(男、韓国人、中国人、日本人、黒人、白人、ムスリム、クリスチャン・・・)だからだ。」こうして僕達は、誰かを理解したような気になり、そこで考えるのを止めてしまいます。だから本質主義は、決して誰かを深く理解することにはつながっていかない。(後略)
僕達は、誰かの声が聞こえなかったり、その顔がよく見えなかったりした場合、自分の立っている場所から相手に向かって近づいてゆかなければならない。しかしそれはまた、自分自身を危険にさらす営みでもある。(後略)』
理解と説得の基本原則ですね。同じ高さに飛び込んで初めて見える(何が見えるかは、まあ問題ではありますが)。同じものを見て初めて聞こえるし、話せるのかな。共感する能力が、あらまほしい。見る目を持たず、聞く耳を持たないのは悲しいことです。
また別の話ですけど、本能とか性格や生まれつきで説明するのは、説明を打ち切るテクニックですよね。それは分かるんですけど、打ち切る実用性も分かるので、一方的に崩してしまうのも、もったいない。つまり、詭弁は詭弁ではない使い道もあるからということですが、詭弁と分からないで詭弁を弄するのも哀れだしね。限界を分かりながら使っていければいいね、ということです。
『(前略)僕達は、日本人が使う言葉が日本語なのだと固く信じている。しかしアンダーソンは、日本人が日本語を話すのではなく、むしろ日本語を使うことで日本人になるのだと主張しているのである。』
昔の日本軍の統治での日本語化が、とても野蛮で下手と思っていたのですが、もっと本質的なことだったのか。
『 一般的に信じられているように、ナショナリズムの時代が終わり、グローバリズムの時代が到来したのではない。グローバリズムは、つねにナショナリズムとともにあり、むしろその生成と発展を促してきた。アンダーソンはこのように主張する。』
あれま、これにも驚きですね。
全体的に、アインシュタインの相対性理論での人間性原理を思い起こしたのでした。人間の外に何か絶対的な流れとして時間を感じていたのが、人から見て区別できないなら同じ一つのものじゃないか、とかのとんでもない発想を出しておいて、それが何で合ってくるの? と思ったことを、何だか感覚的に似ていると、ふと思い起こしたのです。