江戸っ子

江戸っ子
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三.「江戸っ子」とは

(1)山東京伝による「江戸っ子」の定義

 「江戸っ子」の定義としては山東京伝(1761~1816)によるものが有名であり、「江戸城の鯱をみて水道の水を産湯とした」「宵越しの銭は持たない」「食べ物や遊び道具がぜいたく」「生粋の江戸のはえぬき」「いきとはりを本領とする」といった条件を満たすのが江戸っ子とされている。山東京伝著『通言総まがき』の原文は以下の通りである(『日本古典文学大系』第59巻「黄表紙洒落本集」岩波書店1958年)。

「金の魚虎(しゃちほこ)をにらんで、水道の水を、産湯に浴(あび)て、御膝元に生れ出ては、おがみづきの米を喰(くらっ)て、乳母日傘(おんばひからかさ)にて長(ひととなり)、金銀のささごはじきに、陸奥山(みちのくやま)も卑(ひくき)とし、吉原本田のはけの間(あい)に、安房上総(あはかづさ)も近しとす。 隅水(すみだがは)の鮊(しらうを)も中落(なかおち)を喰ず、本町の角屋敷をなげて大門を打(うつ)は、人の心の花にぞありける。 江戸ッ子の根生骨(こんじやうぼね)、萬事に渡る日本ばしの真中(まんなか)から、ふりさけみれば神風や、伊勢町(いせてう)の新道に、奉公人口入所といふ簡板(かんばん)のすぢむこふ、いつでも黒格子に、らんのはち植(うへ)の出してあるは・・・・」

 こうした江戸っ子の条件を最初に読んだときは、「水道の水を、産湯に浴て」という部分に目がとまり、なぜ「水道」が「江戸っ子」の要件となるのか、不思議な思いがした。この点については、永井荷風の「井戸の水」(明治9年)という随筆を読むとその背景をよく理解できる。

「水道は江戸時代には上水と稱へられて、遠く明暦のむかしに開通したことは人の知る所である。上水には玉川の他に神田及び千川の二流があつたことも亦説くに及ばない。子供の時分、音羽や小日向あたりの人家では、江戸時代の神田上水をそのまま使つてゐたやうに覚えてゐる。併し今日とはちがつて、其頃の水道を使用するには、上水の流れてゐる樋のところへ井戸を掘り、竹竿の先につけた釣鐘桶で水を汲んだのである。

江戸のむかし、上水は京橋、両国、神田あたりの繁華な町中を流れてゐたばかりで、辺鄙な山の手では、たとへば四谷また関口あたり、上水の通路になつてゐた処でも、濫にこれを使ふことはできなかつた。それ故おのれは水道の水で産湯をつかつた男だと言へば江戸でも最繁華な下町に生れ、神田明神でなければ山王様の氏子になるわけなので、山の手の者に対して生粋な江戸ツ児の誇りとなした所である。(むかし江戸といへば水道の通じた下町をさして言ったもので、小石川、牛込、また赤坂麻布あたりに住んでゐるものが、下町へ用たしに行く時には江戸へ行ってくると言ったさうである。)」(岩波版全集17-32)

 

 
(2)「江戸っ子」生成についての考察

 以上の永井荷風の文章を読むと、明治の初め頃でも、「小石川、牛込、また赤坂麻布あたりに住んでゐるものが、下町へ用たしに行く時には江戸へ行ってくると言った」ということが解る。よく「芝で生まれて神田で育った江戸っ子」などと言われるが、既に述べたように、元来は、神田や芝さえもが、「江戸」という地区には含まれていなかったのである。 

池田弥三郎氏は、以下のように述べる。(『日本橋私記』)

「歴史的には、江戸っ子とは、もし、将軍のおひざもとの江戸の町の出生者ということになれば、今の中央区の、旧日本橋、京橋区内の人々が、その中心をなしていて、ごく古くは、神田も芝も、江戸ではなかった。もちろん、浅草も江戸の外だ。しかし、時代とともに、芝で生まれて神田で育った者も、江戸っ子となって来たし、川向うの本所深川も、江戸の中にはいってきた。」

そして、

「金銭についての気質を説くにしても、江戸の本町を中心にした、商人の階級に属する人々を対象にした時には、宵越しの銭は使わないどころか、堂々と貯めた人々の気質をみつけなければならない。講釈や落語の世界に出没する概念の江戸っ子から気質をひき出すことは、危険が多いのである。」

「江戸っ子」については、西山松之助『江戸っ子』(吉川弘文館、1980年)という書が委細を尽くしているが、『平凡社大百科事典』における竹内誠氏による説明が簡明でわかりやすいので、以下、これによると(引用はDVD-ROM 1998年版による)、

「江戸っ子という言葉は,18世紀後半の田沼時代(1760~86)になってはじめて登場してくる。(筆者注;山東京伝は1761~1816)・・・・それには二つの契機が考えられる。一つは,この時期は経済的な変動が激しく,江戸町人のなかには金持ちにのしあがる者と,没落して貧乏人になる者との交代が顕著にみられた。 おそらく,この没落しつつある江戸町人の危機意識の拠りどころ=精神的支柱として,江戸っ子意識は成立したといえよう。」

「田沼時代には,江戸に支店をもつ上方の大商人たちが大いに金をもうけ,江戸経済界を牛耳っていたので,とくに経済的に没落しつつあるような江戸町人にとって,『上方者』への反発は大きかった。・・・・・『宵越しの銭を持たねえ』と突っ張るのも,金もうけの上手な上方者に対する経済的劣等感の,裏返し的な強がりとみられる。」

「もう一つの契機は,農村では食べていけなくなった貧農たちが,この時期にいまだかつてないほど大量に江戸へ流入したことである。そのため江戸には,田舎生れが大勢生活するようになった。しかもこれら『田舎者』が,江戸者ぶりをひけらかすことに対して,江戸生れどうしの強烈な〈みうち〉意識が芽生えた。」

 西山氏は、「江戸ッ子という人たちは、単純な階層による単純な構造をもつ特定の存在ではなく、二重構造をもっている」として、「主として化政期以降に出現してきた『おらぁ江戸ッ子だ』と江戸っ子ぶる江戸っ子」(自称江戸っ子)と、「日本橋の魚河岸の大旦那たち、蔵前の札差、木場の材木商の旦那たち、霊岸島や新川界隈の酒問屋とか荷受商人というような、元禄以前ごろから江戸に住みついて、江戸で成長してきた大町人ならびに諸職人たち」(本格的江戸っ子、高度な文化を持った豊かな人たち)とに分けられる」とする。

 

 

 関西人である私は、「江戸っ子」という言葉というか人種に対して生理的嫌悪感を感じ、海保青陵(1755~1817)による「江戸ものは小児のやうなり、馬鹿者のやうなり、甚だ初心なり」(升小談)という論に共感、同感してきたのであるが、「元来の江戸」というべき日本橋の歴史・文化を知り、はじめて、「江戸」、「江戸っ子」に対して、反感のない理性的認識を持つことができるようになったと思う。

(おわり)

3.通言総籬|東京都立図書館ホーム コレクション紹介 特色あるコレクションの紹介 特別コレクション 第57回 山東京伝の世界 3.通言総籬
通言総籬 つうげんそうまがき 山東京伝著 山東鶏告(けいこう)画 一冊 天明7年(1787)刊 蔦屋重三郎 請求記号:函12-9

天明期洒落本の代表作の一つに数えられる作品です。京伝の洒落本の第三作で、「江戸生艶気樺焼」の登場人物艶二郎・喜之介・志庵の三人を再登場させています。艶二郎は、愚行を重ねるわけではありませんが、あまりもてない男として描かれています。
前半は、その三人の会話により吉原や、遊郭を中心とする当時の社交界の噂などが詳細に描かれます。後半は、当時の有名な妓楼である「松葉屋」をモデルとした「松田屋」に彼らが出かけ、そこでの遊興の様子や、他の遊女と客の姿が克明に描かれます。江戸っ子の条件としてよく引き合いに出される「金の鯱鉾(しゃちほこ)をにらんで、水道の水を産湯(うぶゆ)に浴びて、御膝元に生れ出ては拝搗(おがみつき)の米を喰て(くらって)・・・」という言葉は、この小説の冒頭に書かれています
序文を寄せた「文京」は、松前藩主の弟である松前百助頼完(よりさだ)であり、京伝の当時のパトロンの一人でした。

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江戸っ子について
by wpmaster • 2017年1月17日 • 0 Comments
江戸っ子という言葉をよく聞きます。どういうことなのか調べていたら下記のように日本大百科全書に詳しい解説がありました。

江戸居住者ないし江戸市民は江戸者と称し、そのなかでも生え抜きの江戸者、生粋(きっすい)の江戸市民を江戸っ子といった。江戸っ子は父母ともに3代続きの市民であることが必要条件とされた。このように絞ると、享保(きょうほう)年間(1716~36)の江戸町人人口50万のうち、江戸っ子はざっと10%にしかならなかった。「江戸っ子」ということばの初見は1771年(明和8)の川柳(せんりゅう)で、「江戸っ子のわらんじをはくらんがしさ」である。1603年(慶長8)江戸開府後、各地から浪人者その他が多数流入して江戸市井に入り込み、各町の草分けとなってから約1世紀半もたつと、蓄財も進み成長した町人ができてきた。そのころになると江戸市民の間に同郷的連帯感が強まってくるし、「江戸っ子」ということばがみられるようになる。またこの語感が彼らの気質にもあったために、寛政(かんせい)(1789~1801)以後の江戸繁栄期に普及した。

この江戸っ子の特徴としてあげられるのは、粋(いき)で勇み肌の気風、さっぱりとした態度、歯切れのよさ、金銭への執着のなさなどがあり、また浅慮でけんかっ早い点もある。「金の鯱鉾(しゃちほこ)をにらんで、水道の水を産湯(うぶゆ)に浴び、おがみ搗(づ)きの米を食って、日本橋の真ん中で育った金箔(きんぱく)つきの江戸っ子だ……」が、芝居の台詞(せりふ)からきた自賛の弁。将軍家のお膝元(ひざもと)に住むという自負のある反面、排他的な誇りを含み、見栄(みえ)を張り、意地を張るという気質も強い。

江戸の経済構造が利権にからみ、ぬれ手で粟(あわ)のつかみ取りといった新興富裕層を生み、それを浪費、蕩尽(とうじん)する一面が強調され、また江戸の都市構造上頻繁に起こる火事は大商人をおびえさせた。しかし勤労層は災害もあまり苦にならず、労銀もあがり、復興景気の恩恵にあずかれるとなれば、宵越しの金をもつ必要もなかった。大工、左官、鳶(とび)の者、天秤棒(てんびんぼう)を肩にして行商する連中などの、「俺(おれ)たちゃ江戸っ子だ」という意識が強くなり、それを唯一の誇りとして「江戸っ子」を振り回して力みだしたのは文政(ぶんせい)(1818~30)のころからである。[稲垣史生]
『『三田村鳶魚全集 第7巻』(1975・中央公論社) ▽斉藤隆三著『江戸のすがた』(1936・雄山閣出版) ▽石母田俊著『江戸っ子』(1966・桃源社) ▽西山松之助著『江戸っ子』(1980・吉川弘文館)』 より

「江戸っ子」の意識が江戸時代中期の18世紀半ば以降にできあがった背景には、新興都市として発展した江戸の町の特異性があるようです。江戸の街には地方から多くの人が移住しそれに対抗して方言や生活習慣で地方色を色濃く残す江戸住まいの地方出身者や上方文化に対抗するプライドや「江戸生まれ」としての確固たる美意識が芽生えた結果、「自分は “江戸っ子”である」という意識が生まれたのでしょう。『通言総籬』には以下のような江戸っ子の口上が記載されています。

金の魚虎(しゃちほこ)をにらんで、水道の水を産湯に浴びて、お膝元に生まれ出でては、拝搗の米を喰って、乳母日傘で長(ひととなり)、金銀の細螺はじきに、陸奥山も卑きとし、吉原本田の髣筆の間に、安房上総も近しとす、隅水(隅田川)の鮊も中落は喰ず、本町の角屋敷をなげて大門をは、人の心の花にぞありける、江戸っ子の根性骨、萬事に渡る日本ばしの真中から・・・(後略)—山東京伝『通言総籬』、

落語や小説でも江戸っ子は取り上げられ夏目漱石の「坊ちゃん」は有名です。また江戸っ子のキャラクター例として寅さんや両さんを思い浮かべますね。ビートたけしさんも下町育ちでぺらんめー調です。

バブル期以降地上げ等が進み都心下町を離れる人も多く「江戸っ子」の気質を継ぐ人が少なくなっています。近年、江戸っ子と呼称する条件の厳しさから、概ね東京旧市内の地域の住人の間で、同じ地域内で代を重ねた住人に対し「(地域名)っ子」の名称を好んで使う傾向にある(神田っ子、下谷っ子、本所っ子、深川っ子など)ようです。

https://www.nhk.or.jp/kids/nihongo/song/nig_1905_edokko.html

江戸散策 │ 第10回 │ クリナップ 江戸っ子は、とにかくプライドが高かった。それには、理由がある。将軍のお膝元で生まれたこと、それに水道の水で産湯を使ったことである。『金の鯱(しゃちほこ)をにらみ、水道の水を産湯に浴びる』というように、大威張りである。江戸城天守閣の鯱は明暦の大火で消失してしまったが、当時は高層建築もないから、どこからでもよく見えたし、神田上水や玉川上水も機能していた。

 ここで本題に入るのだが、プライドが高いもうひとつの理由は、ピカピカの「白米」を食べられたからである。白米とは、玄米から胚芽、ぬかなどを取り除いた精米後の米。現代人が食べているのもこの白米である。当時これはもうたいへんなことだった。

 写真は舂米屋(つきまいや)の内部。今のお米屋さんである。店先では米を売っているが、その奧ではこのように玄米をついて精米をしていた。かなりしっかりした道具で唐臼(からうす)という。

 当時の地方は、一般に米は玄米、それに麦や稗、粟のようなものも食べていたと思われる。江戸では、米の流通システムが出来上がっていたから、長屋の住民も精米された白米を毎日口にすることができたのである。

 考えてみれば、田舎に暮らす人にとって、別に将軍様の膝元に生まれなくても生活に支障はないわけだし、産湯の水が何だったかなんて覚えている人もいないだろう。しかし、毎日の食べ物となるとこれは話が違う。米を十分、しかも白米を食べられるとなると、江戸は素晴らしい所ということになる。
 当時江戸の人口が増えた理由のひとつに、江戸に「白米」があったからと筆者は踏んでいる。「江戸に働きに出れば、おいしい白米を腹一杯食べられる」。と考えてもおかしくない。実際、江戸には仕事もあったし、都市として地方の者を受け入れる環境もあった。

 しかし、白米はいいことばかりではない。胚芽部分に含まれていたはずのビタミンB1が欠乏した。だから江戸では脚気(かっけ)が非常に多かった。江戸へ出てきた者が地方に戻ると直ったことから、「江戸患い(わずらい)」と呼ばれるほどである。ひとたび江戸を離れれば、麦や雑穀の飯が主食になるので、知らず知らずのうちにビタミンB1を摂取できたということだろう。当時の人は医学的な根拠でなく、経験則としてとらえていたようだ。
 おいしい白米を食べて、誇らしく「花のお江戸」で暮らせるものの、脚気になるとは皮肉な話である。

江戸散策 │ 第5回 │ クリナップ水道といっても、今のように台所で蛇口をひねって、水がジャーと出るということではもちろんない。江戸には初期から飲料水を確保するシステムがあった。水道。まさに水の道である。

 家康が江戸幕府を開いたのが慶長8年(1603)。しかし、一朝一夕にして開府したのではなく、天正18年(1590)頃からいろいろ準備を始めていたようだ。飲み水の確保のためだけではなく、洪水を防ぐために川の付けかえをしたりして、河川を整備した。治水は、幕府を開く開かないにかかわらず、城下町経営の上で必要だったということだろう。

 本格的な「神田上水」は寛永6年(1629)頃に完成し、江戸市中へ給水した。当時、江戸の都市造成は急ピッチで進んでいて、武家屋敷の急増、町人人口の増加など、飲料水の確保が急務だった。神田上水の主水源、井の頭池。現在のJR吉祥寺駅近くの井の頭恩賜公園にある。つまり、神田上水は、神田川を利用してつくられた。

 水源から関口(現在の大滝橋の辺り)までは自然流を改修して利用し、関口で堰き止めて水位を上げ、神田川の北側にもう一本「白堀」といわれる素堀りの水路をつくった。そして、水戸邸内(現在の後楽園辺り)を通して、神田川を懸樋(かけひ)で渡した。これが「水道橋」だ。現在の水道橋の名前はここからきているが、当時はもう少し下流(お茶の水駅側)にあった。

 江戸の発展はそれでも飲料水不足で、幕府は、承応3年(1654)に「玉川上水」を完成させた。水源を多摩川に求め、羽村(現在の東京都羽村市)から四谷大木戸(現在の新宿区四谷)までの約43キロメートルの水路をつくり上げた。当時は、水は高い所から低い所へ流れるという自然流下式だから、工事も気の遠くなる話である。

 神田川を渡った神田上水や、四谷大木戸へたどり着いた玉川上水は、地下に張り巡らされた木や竹、石製のいわば水道管を通って上水井戸に溜められた。それを桶で汲み上げて使ったのである。

 湧き水や近くの小さな河川に飲料水を求めていた時代に、江戸という大都市の出現は、それなりの都市機能が必要だった。当時のロンドンでさえ、地上の小規模な人工水路で市内に給水していた頃である。「水道の水で産湯を使った」ことは、江戸っ子の自慢。それはそれとして、こんな水道を持っていた文化を、日本人は世界に向けてもっと自慢していいのではなかろうか…。

冷水売り(料金は一杯四文、注文によリ砂糖も入れた)
飲料水として神田上水や玉川上水ができても、江戸のすべてをカバーすることはできなかった。それなら井戸を掘ればいいじゃないかと思うかもしれないが、井戸掘り技術があまり進んでいない時代、とくに下町は海を埋め立てた場所が多く、少々の井戸を掘ったところで、塩気があって飲めるものではない。
 井戸水は、もっぱら洗濯や風呂、鮮魚を冷やすための冷し水のような生活用水として使われた。
 そこで登場するのが、物売りの一形態である「水売り」とか「冷水売り」である。「ひゃっこい、ひゃっこい」の売り声で売り歩いた。本当に冷たいかどうかは疑問。
 飲み水の行商人もいた。上水の届かない本所や深川地域には、上水の余り水を水船業者が水船に積んで運んだ。
 水が貴重であることに今も昔も変わりないが、当時の人々は、子どもたちに水の大切さを徹底して教え込んだという。現代人は忘れてしまっていないか、…反省。

「江戸っ子」の定義 *山東京伝の『通言総籬』より : 噺の話2010年 06月 26日
「江戸っ子」の定義 *山東京伝の『通言総籬』より
 田中優子さんの『江戸っ子はなぜ宵越しの銭を持たないのか?』 を紹介した時に、同じようなテーマを扱う中込重明さんの「落語で読み解く『お江戸』の事情」に、「江戸っ子」の定義を最初に記した洒落本として山東京伝『通言総籬(ツウゲンソウマガキ)』が紹介されていることを書いた。
2010年6月12日のブログ
 この洒落本の該当部分の原文とその解説をしてくれる本にめぐり合ったので紹介する。江戸文化全般や戯作、狂歌、そして江戸時代の出版事情などに関して数多くの著作のある中野三敏さんの『江戸文化評判記-雅俗融和の世界-』(中公新書、1992年発行)である。
中野三敏 江戸文化評判記-雅俗融和の世界-
「江戸っ子のアイデンティティ」からの引用。

 江戸っ子意識をうたいあげた好例としては天明七年(1787)刊の山東京伝作洒落本『通言総籬』の巻頭部分をあげるべきだろう。

 金の魚虎(しゃちほこ)をにらんで、水道の水を産湯に浴びて、御膝元
 に生れ出ては、拝搗(おがみづき)の米を喰(くら)つて、乳母日傘にて
 長(ひととなり)、金銀の細螺(きしゃご)はじきに、陸奥山(みちのく
 やま)も卑(ひくき)とし、吉原本田のはけの間に、安房上総も近しとす。
 隅水(すみだがわ)の鮊も中落を喰(くらわ)ず、本町の角屋敷を
 なげて大門を打つは、人の心の花にぞありける

 名文家京伝による、江戸っ子の啖呵の総集編ともいうべき文章だが、今となってはかなりわかりにくいものとなっている。
「金の鯱」といえば名古屋城かと思われようが、明暦大火以前の江戸城本丸、五層の天守閣には金鯱が歴然とかがやいていたはずであり、これこそ江戸っ子の原風景であり、アイデンティティであった。また元禄期までには神田上水をはじめとする六上水が開かれて、江戸市民ははやくから水道の恩恵に浴していた。
 お膝元はいうまでもなかろう。拝搗の米は拝むようにていねいに搗きあげた精白米、乳母日傘という文句は今も辛うじて生きていよう。おもちゃのおはじきも金銀細工のきしゃごを使って、黄金花咲くとうたわれた陸奥山をものの数ともせず、男のヘアスタイルの最新型吉原本田のはけ先に安房上総が浮かんで見えるとは、これこそ江戸っ子の頭梁株助六の名文句である。白魚といえども脂っこい中落などは食べず、土一升金一升の目抜き通りの地所を売り払ってでも吉原の総揚げをするのを男子一生の見栄と心得る、これこぞが江戸っ子の根性骨だというのである。なんと浅はかなというのはたやすいが、当代の江戸っ子にしてみれば、精一杯踏んばった覚悟を必要としただろう。

 この本、たまたま昨日仕事で移動中の大井町の古本屋さんで発見した。江戸関連のコーナーで立ち読みしていて、この部分を発見した時は、結構うれしかった。まだ読み終えていないのだが、この箇所だけでもぜひ紹介したいと思った次第です。

江戸っ子 – Wikipedia江戸っ子の概念
多くの研究者は江戸っ子の性格として「見栄坊」「向こう見ずの強がり」「喧嘩っ早い」「生き方が浅薄で軽々しい」「独りよがり」などの点をあげている[2]。また「江戸っ子は三代続いて江戸生まれでなければならない」という概念もよく知られている[6]。また江戸っ子の性格をあらわす表現としては「江戸っ子は五月の鯉の吹き流し[7]」、「江戸っ子の生まれ損ない金を貯め」という川柳に見られるような「江戸っ子は宵越しの銭は持たぬ」という金離れの良さを著した言葉がある。現代に見られる類型的な江戸っ子像として「金離れが良く、細かい事にはこだわらず、意地っ張りで喧嘩早く、駄洒落ばかり言うが議論は苦手で、人情家で涙にもろく正義感に溢れる」・「いきでいなせ」などと表現される短気・気が早い、などとも言われ、江戸っ子気質(えどっこかたぎ)などとも呼ばれている。

江戸っ子の研究の先駆者である三田村鳶魚はこうした「江戸っ子」はいわゆる町の表通りに住む「町人」とは異なり、裏店の長屋に住む火消し、武家奉公人、日雇いの左官・大工などが江戸っ子の頭分にあたるとしている[8]。三田村は東海道中膝栗毛や浮世床等で江戸っ子をからかったものが多いのは、こうした「江戸っ子」達が本を読むことがない無学な者であったからとしている[9]。三田村は幕末に至る景気後退の中で、こうした江戸っ子達は徐々に姿を消していったとしている[10]。

1980年(昭和55年)に『江戸っ子』を著した西山松之助は、江戸時代に著された江戸っ子に関する書籍を調査し、江戸っ子を「自称江戸っ子」と「本格の江戸っ子」に分類した。それによると「徳川将軍家のお膝元である江戸に生まれ」、「宵越しの金を使わない」、「乳母日傘で過ごした高級町人」、「市川團十郎を贔屓とし、『いき』や『はり』に男を磨く生きのいい人間」が本格の江戸っ子像であるとし、「喧嘩っ早い」などの性格はこの変形や半面に過ぎないとした[11]。

天明期の戯作者山東京伝は、こうした江戸っ子をデフォルメし「江戸っ子」を自称する人物を作品に登場させた[5]。京伝は1787年(天明7年)発刊の『通言総籬』において、気負いだった空回りする江戸っ子を描き、多くの支持や亜流を産んだ。『通言総籬』には以下のような江戸っ子の口上が記載されている。

金の魚虎(しゃちほこ)をにらんで、水道の水を産湯に浴びて、お膝元に生まれ出でては、拝搗の米[12]を喰って、乳母日傘で長(ひととなり)、金銀の細螺はじきに、陸奥山も卑きとし、吉原本田の髣筆の間に、安房上総も近しとす、隅水(隅田川)の鮊も中落は喰ず、本町の角屋敷をなげて大門をは、人の心の花にぞありける、江戸っ子の根性骨、萬事に渡る日本ばしの真中から・・・(後略)
—山東京伝『通言総籬』、[13]
しかし寛政の改革によってこうした著作は反体制的であるとして弾圧された。一方で天明期の戯作の支持者であった魚河岸の魚問屋、札差達は「江戸っ子」概念に誇りを持ち、継承していった[14]。一方で西山は文化文政期になると、下層町民が文化活動に参加するようになり、江戸っ子を自称して空威張りをはじめるようになったとしている[15]。

第1章 「江戸っ子とは」 | 江戸純情派「チーム江戸」2019.04.12 23:47
第1章 「江戸っ子とは」
 俗に「芝で生まれて神田で育つ」人間が江戸っ子の最低条件であるとされる。これには前句があって、すいどの水で産湯を使い、金の鯱鉾チラチラ眺め、芝で生まれて神田で育つとくる。

これがチャキチャキの「江戸っ子」である。

チャキチャキとは武士が刀を鞘に収める際のチャリンを指す。つまり筋金入りの江戸っ子である事を指している。

 さて、江戸っ子を世代的にみると、

①地方から来た人間=田舎っ子 

②片親が地方の人間=斑っ子 

③両親が江戸生まれの子、つまり三代目=生粋の江戸っ子

と云う訳である。居住地域別にみると、昭和20年、区制改正により23区が誕生する前の日本橋区、京橋区、 神田区、所謂下町=城下町に住んでいた人々である。

その頃本郷、浅草辺りに住んでいた人達はこちら=三区に来る時は「江戸へ行く」「下町へ行く」と称した。

 人間的には粋でかっこしで空元気、金離れがいいがいつも財布は空っけつ。理由は簡単、稼ぎ以上に金を使うか、先に使ってしまって稼ぎが追いつかないか、いずれにしても貯えがないのである。

最もこれには妥当性があって、後の項で触れるが、

①江戸に多きものとして火事が挙げられる。ひとたび火事が発生すれば裸一貫で逃げ出さなければならない。

②庶民は江戸人口の約半分、その7~8割が長屋=賃貸暮らし、つまりその月、極端に云えばその日の飯と寝る布団さえあれば、お天道様はついてまわったのである。何処かの小金持ちの様に金品にはこだわらない。

 「江戸っ子のなりそこないが金を貯め」

江戸っ子の痛烈な批判かひがみか。人情味があって、多少他人様には親切と云うよりお節介的であるがそれを人には押しつけない。

「イヤならいいよ」といい意味での個人主義。飲む事、食べる事や、祭り等人の集まる処に出たがり、騒ぐのを好む習性がある。流行には敏感であるが、いいとこだけ取って染まらない。自己のパーソナリティを出し独自のおしゃれを楽しむ。

 「江戸っ子は五月の鯉の吹き流し 威勢はいいが腸(はらわた)はなし」

と云われる様に口の使い様はぞんざいであるが、今時のおばさまの様な底意地の悪さは持ち合わせていない。これが江戸的人間関係の凬通しの良さである。

根にもたない、宵越しの銭は持たねぇ、いや持てねぇ自分の家も持たねぇ、ましてや土地付き一戸建て等、夢のまた夢であった。

平成の娘達が嫁に行かず、たまにいっても出戻る一人者が多いが、江戸の長屋の八っあん、熊さんも周りが全員間借り人、「皆なで借りてりゃこわくない」てな寸法で目立たなかった。

 

 現代人の様に自己所有のマンションや一戸建てに庶民がこだわりだしたのは先の太平洋戦争に負けてからである。そう云った環境土壌のせいか、江戸っ子は余り労働の強化は好まない。早く云えば勤勉性に欠けるのである。

ある程度生活が出来ればそれで良しとし、自分達の生活を楽しんだ。

現代人の様に家の為、子供の為、自分の墓の為お金を貯めなくても良かった。

 

 さて問題の女性に対しては、カッコしいで親切ではあるが、優しすぎてイマイチ押しが足らない。優しさだけでは一緒にはなれない。

現代の若者達と良く似ている。

従って押し切られる形で一緒になる。結果一生敷かれる下地がここから始まっている。

対し江戸下町の女性は多少色が浅黒く筋肉質、柳腰に瓜実顔、スッピンに紅をひき薄化粧を好み、着る物は藍黒鼠を基調とた地味系。ポンポン物を云う割には涙もろい。

気に入れば男につくすが、見切りをつけると後を振り返らない、さっと黙っていなくなる。 追う男に追われる女、図は今と変わらない。

江戸の女は「コシがあってきれがいい」。

例えるなら大吟醸の日本酒(失礼)の様であった。

 「江戸っ子とはこんなもんでぇ」とひとつの生き方を戯作者の山東京伝が洒落本「通信総まがき」の中で「江戸っ子の浪漫の夢」として載せているので御紹介する。

 「金の鯱鉾をにらんで 水道の水を産湯に浴びて 

  御膝元に生まれ出ては 拝み搗きの米を喰って 

  乳母日傘にて長(ひととなり)金銀の細縲はじき 

  水(大川)の白魚も中落ちを喰はず(中略)

  本町の角屋敷を投げて 大門打つは人の心の花にぞありける

  江戸っ子の根性骨 萬事に渡る 日本橋 の真中から」

大江戸広辞苑【さ行】 | Noren<大江戸広辞苑>【さ行】
【さ】3代続けば、江戸っ子
「江戸っ子」という言葉の初出は18世紀後半、いわゆる田沼時代です。よく「3代続けば江戸っ子」と言われていますが、こんな言葉があること自体が、当時、江戸に生まれ育った者が少なかった何よりの証拠といえるかもしれません。ちなみに、江戸後期の戯作者、西沢一鳳は、 「両親ともに江戸生まれの“真の江戸っ子”は1割しかいない。片親が田舎生まれの“斑(まだら)”が3割、両親ともに田舎出の“田舎っ子”が6割もいて、その連中が、おらぁ江戸っ子だと騒いでいる」 と書いています。
江戸は、人々が流入・流動する町。つまり、先住者と新参者がせめぎ合う町でした。仕事を取り合う状況のもとで、以前から江戸に住んでいる者は「3代続いた江戸っ子」という言葉を、優先順位を主張する呪文として使い、情けない思いをした時のツッパリにもしたことでしょう。
また、田沼時代は、江戸商人が大きく成長していった時代でもありました。それまで上方の商人たちに押しまくられていた江戸商人のなかから、江戸生まれ・江戸育ちの豪商が出て、町人文化を育てるだけの財力を持つようになってきたのです。そのことで、「江戸っ子」という言葉には、ブランドパワーも生まれました。
しかし、3代続いていようが、財力があろうが、“いき”で“いなせ”でなければ「江戸っ子」とは言えない……。このあたりに、「江戸っ子」という言葉の真髄があるのです。
【す】水道水で産湯
 「神田の水で産湯を使い…」「玉川の水で産湯を使い…」とは江戸っ子が啖呵(たんか)をきるときの決まり文句。この言葉、単に江戸を象徴する川の名として、神田川や玉川の名前を挙げていると思われがちですが、そうではありません。
実は「神田の水」というのは、神田上水の水ということ。同じく玉川の水は、玉川上水。現在、JRに水道橋という駅がありますが、この「道」が、まさしく、その上水道です。江戸っ子は、川の水や井戸の水などではなく、水道水を使っていることを自慢しているわけで、そうした近代設備のない田舎者を見くだす文句として、この言葉を使ったのです。
江戸はその多くが遠浅の海を埋め立てた土地だけに、水には苦労した土地柄で、人々は山の手の段丘に湧く湧水を売りに来る水売りの水を飲んでいました。けれど、それだけで日常生活が賄えるわけではないので、開府当初は赤坂の溜池の水が使われ、まもなく神田上水が、ついで玉川上水が引かれ、やがて上水が江戸市中の道路の下に網の目のように張り巡らされたのです。
もっとも、この上水道の水、衛生学的には疑問がいっぱい。生温かく、雨が続くと濁り、ドジョウも泳いでいたといいますから、「神田の水で産湯」を使った赤ちゃんは災難だったかもしれませんね。