井戸 – Wikipedia江戸下町の井戸
江戸時代の江戸の下町地域の井戸は、地下水取水のための設備ではなく、玉川上水を起源とする、市中に埋設された上水道の埋設管路(ライフライン)からの取水設備であった。これは大部分の下町地域は太田道灌により海を埋め立てて造成された地域であり、井戸を掘っても海水ばかりがでて使い物にならなかったため、埋設管路により下町に水を供給し、これを井戸(形状としては掘井戸の形)に接続させ、給水を行っていたものである。そのため水が桶に溜まるまで多少の時間がかかり、それを待つ間に近所の者で世間話をする「井戸端会議」という言葉が生まれた。
江戸の上水江戸時代には下図の通り玉川上水、神田上水、をメインに亀有上水(本所上水・曳舟上水とも言う)、青山上水、三田上水、千川上水、と六つの上水がありました。
早稲田大学の近くに関口と言う所がありますが、江戸時代 そこには水の流れをコントロールする為の大きな関がありました。これらは神田上水と呼ばれたものの名残りです。
又 水道橋と言う地名が今でも残っていますが、江戸時代 そこには神田上水を渡す橋が実際にありました。
亀有上水は、後に葛西用水・曳舟川と呼ばれ、水路・農業用水として使われ、 引船(人手で船を引っ張っていた)が運行されていました。
地図を見ると、今でも長い直線道路が残っていて 所々は既に埋み立てられていますが、葛飾区「郷土と天文の博物館」・足立区「郷土博物館」の近くは「川のある公園」として整備されています。
玉川上水・神田上水は明治時代へ引き継がれましたが、亀有上水・青山上水・三田上水・千川上水は「江戸に火事が多いのは、地中の水気を水道がうばってしまうからだ!」と言う珍説が、幕府に採用され 江戸中期に廃止されてしまいました。
(1722年に廃止のようです)
江戸の井戸しかし 江戸は海辺に開発された都市の為 地下水脈が深く、掘るとすぐ塩水が出てきて 井戸はかなり深く掘らなければいけない! 又 江戸時代後半 関西から「あおり堀り」の技術が入ってくるまでは 井戸を掘る為には 高額なお金が必要であった!と聞かされたらどうでしょう?
8022_資料館ノート113資料館ノート 第 113 号 平成 28 年 1 月 16 日発行
長屋と人々の暮らし⑤
深川の人びとの暮らし 江東区深川江戸資料館
2. 江戸の水
(1) 上水の発達
天正 18 年、徳川家康の江戸入府当時の江
戸の町は、葦が生い茂る湿地帯が広がり、江
戸城のすぐ近くまで海岸線が走っていました。
そのため、日比谷入江と呼ばれた海を埋め立
て、のちの日本橋から新橋周辺を造成します。
また、井戸を掘った際に出てくるのは塩水ば
かりであり、住環境を整える上で、飲み水の
確保が重要になりました。
そこで、幕府は小石川を水源とした小石川
上水(のちの神田上水の原型)を完成させます。そ
の後、寛永 6 年(1629)頃、井の頭池を源流とす
る神田上水がほぼ完成します。そして、江戸市街地
の発達に合わせ、石樋や木樋といった水道管が上水
につながれ、給水場所も拡張するようになりました。
神田上水ではまかないきれない江戸城の西南の地域
には、承応 2 年(1653)玉川上水が開削され始めます。
その後、明暦 3 年(1657)の江戸大火を契機とした
市街地拡大政策は、新たに亀有(本所)上水・青山
上水・三田上水・千川上水の 4 つの上水増設を行い
ました。これにより、大都市江戸を支える六上水が
完成しました。
(2) 江戸期の水売り
江戸時代の物売りで「水売り」や「水屋」と紹介さ
れている水を商品として売る商売がありました。夏に
冷水売りとして冷水に白玉と砂糖を入れて売る行商人
として洒しゃれぼん
落本や川柳でも取り上げられ、初夏の風物
詩として多く記録にも残されています。同じ水売りで
も、水道や井戸に遠い場所や、良質の井戸に恵まれ
ていない所に、平時飲み水を売りに廻る行商人もい
ました。天候や遠近によって左右されるものの、1 荷
(天秤棒の前後の 2 つの桶)4 文程度で売っていた
といいます。
(3) 深川地域と水
海に近接し、埋立地域を背景としている深川地域
では、井戸を掘っても塩分のある水が出て良質な水
を求めにくく、生活をする上で「水」との関わりがと
ても重要でした。江戸市中では、神田上水を始めと
する上水道が普及されていました。深川方面も「亀有
(本所)上水」が開通していましたが、享保 7 年(1722)
に廃止されています。その背景には維持が困難だっ
たとか、将軍の側近であった室鳩巣の進言によるもの
であるなど諸説あるようです。また、四上水に代わる
ものとして、地下の深いところから真水を汲み取る掘
抜井戸の技術が江戸で広まったのもこの頃です。
当該地域のような上水や井戸が遠い場所や、良質
な水に恵まれていない場所には、水を舟に積んで売り
にくる水舟や、先に述べた水売り(上図)がきて、人
びとはそこから生活に必要な水を購入していました。
この水は、神田・玉川の余剰水が利用されました。
水売りを生業とする者たちは、呉服橋門内の銭ぜにかめばし
瓶橋
左右や、一いっこくばし
石橋左右の余水の放流場所に船をつけ、
この水を汲み、一荷いくらという値段をつけて、主に
深川地域の人びとに売っていたのです。
一方で、深川佐賀町には、菓子の名店である船橋
屋がありました。菓子屋は、良質な水を必要とする業
種の一つです。船橋屋は練ねりようかん
羊羹を売り物としており、
1日に800 棹から1,000 棹も販売していたといいます。
その製造用水には大量の水を使用するため、掘抜井
戸を使用していたと考えられます。しかし、掘抜井戸
も掘るのは容易なことではなかったため、一町にどの
くらい普及していたかは不明です。
以上のように深川は、町の開発から発展・成立まで
の地域的特徴から、特色ある職業や暮らし、文化が
生まれ、その様子が現在まで窺い知ることができる
地域といえるでしょう。
(主な参考文献)
池上彰彦「後期江戸下層町人の生活」(『江戸町人の
研究』2、吉川弘文館、1973)
東京都公文書館編『東京の水売り』(都市紀要 31、東
京都、1984)
作品詳細 | 深川佐賀町菓子船橋屋 | イメージアーカイブ – DNPアートコミュニケーションズ作家名
歌川国芳
酒場で歴史を語る会 佐賀町の羊羹屋「船橋屋織江」(1) 深川佐賀町の菓子屋の主人、船橋屋織江は、大当たりとなった練羊羹などの製造販売を行っただけではなく、甘味好きにお菓子の製法を被歴・伝授した本を書き 印刷製本した『菓子話船橋』があり、天保12年(1841)に刊行しました。
下に掲げるのは、
国立公文書館所蔵の 1915年刊の「雑藝業書」第2に収録されている活字版で す。
深川佐賀町の菓子の名店船橋屋は文化初めの創業で、練羊羹を売り物としていた。本書は その船橋屋の主人が、店に伝わる菓子の製法を、素人の菓子好みの人々が作れるようにと 分量付きで記したもの。『料理通』の菓子編といった趣があり、同じく「江戸流行」 の角書きを持つ。
羊羹はかつては小麦粉や葛粉をつなぎとし、蒸して固める蒸羊羹が一般的だったが、十八 世紀後半には寒天で固める練羊羹が、口当たり日持ちのよさで人気を集め、各地に広まった。 提示は名物の練羊羹の製法を記した部分。ほかに麦羊羹、胡麻羹、百合羹、白羊羹など様々な 素材の羊羹の製法も記載されている。
江戸散策 │ 第51回 │ クリナップ「井戸浚 (いどさら)い」を知っている人はどれだけいるだろう。井戸浚いとは井戸の清掃で、井戸の水をできるだけ汲み出した後に落下物を取り出し、井戸の内側を洗う作業である。井戸の中に入るのは危険な作業でもあることから、井戸浚いの職人も存在した。井戸に生活用水を頼っていたのはそれほど遠い昔の話ではない。いわゆる近代水道の施設が完成して給水が開始されたのは明治32年、それも東京市の一地域においてである。その後、大正昭和とかけて水道施設は拡充され整備されてきた。その一方で掘削技術も向上した結果、井戸も掘られてきたのである。それらの井戸は水道の普及や開発により今ではほとんど見ることはできないが、使っていた頃は年に一回は井戸浚いをしていたはずである。
江戸の井戸はほとんどが共同井戸、その恩恵に預かる関係者が協力して井戸浚いをする。旧暦の7月7日(新暦8月中旬頃)を井戸の大掃除の日と決め、年に一度の夏の行事でもあった。七夕の日には、竹を飾る前に重要な行事を終えなくてはならなかったのだ。
この図会は「井戸浚い」の様子。井戸の蓋をはずし、大きめの桶で中の水を全部汲み出そうとしているところだ。重い水を能率良く汲み出すために滑車も用いた。おおかた汲み出したところで、今度は井戸職人が中に入って落ち葉などの落下物を拾ったり洗ったりする。この井戸浚いは江戸中で一斉に行われた。なぜなら、地下に上水道を引いて給水している井戸なら水源はみなつながっているため、一斉に清掃しなくては意味がないからである。暑い盛りに清潔な水を飲むために、みんながおいしい水を飲むために、その井戸に毎日お世話になっている住民は一致協力して井戸浚いをした。なぜこの日なのか、それは七夕本来の意味が、数日後にやってくる盂蘭盆(うらぼん)に向けての祓(はら)いの儀式でもあったからだ。井戸浚いはたいせつな水を清める儀式とみることができる。現実的には、伝染病を恐れた人々は飲み水には特に注意をはらい、雑菌が繁殖するこの季節を選んだのだろうと思える。
江戸市中の井戸がつながっているというのは、神田上水や玉川上水が地下に引き込まれていたからである。まるで道路を掘り返して水道管やガス管を地中に埋めるような作業を広範囲に施したのである。ただ管は鉄製ではなく木や竹をつなげたものだった。場合によっては石も利用する。地下に張り巡らされたいわゆる水道管の先には、いくつもの大きな桶が設置されていて、そこに水が溜まる仕組みになっている。江戸の人々は、この桶に溜まった水を地上から汲み上げて使ったのである。この井戸を上水井戸(じょうすいいど)といった。見た目は普通の井戸と変わらないが、井戸の底には桶が入っていて、地下水ではなく上水が遠くからそこまで給水されているそんな技術が当時あったというのだから驚くほかない。
長屋の共同井戸 復元 深川江戸資料館
井戸端会議というのは、きっとこんな所でやるのだろうと思える井戸である。長屋の住民はこの井戸の周りで朝は顔を洗ったり、洗濯をしたり、野菜を洗って料理の下ごしらえをしたのだろう。井戸の周りの囲いは共同の大きなシンクのようでもある。この深川地域の井戸は上水井戸ではなく掘り抜き井戸だった(本所上水が引かれた時期もある)。海が近いため井戸水は塩辛かった。それでも飲料水以外なら使い道はいろいろあったのだ。
神田上水や玉川上水は、江戸全域に行き渡っていたわけではない。上水の恩恵を受けられなかった地域もある。それは地理的な要因で当時は自然流下式、つまり上水を江戸に引き入れた取水口より高い場所には給水ができなかったためだ。隅田川を渡すこともできなかった。
上水の届かない本所や深川地域には、上水の「余り水」を水船業者が水船(みずぶね)に積んで運んだ。住民は水屋といわれる商人から飲料水を買っていた。余り水とは江戸市中に給水後、最後に日本橋川の銭瓶橋(ぜにかめはし) に排水(というべきかどうか)された水である。銭瓶橋は一石橋(いっこくばし)の西方にあり道三堀(どうさんぼり)に架けられていたが、堀も橋も今はない。
文 江戸散策家/高橋達郎
江戸散策 │ 第77回 │ クリナップ湯屋に入るとまず番台で湯銭(入浴料)を払う。当時は番台でなく高座(こうざ)と呼ばれた。この時代の湯銭は十文(約250円)、蕎麦一杯(十六文)よりもだいぶ安い。脱衣場の様子はここには描かれていないが手前の方だ。衣類は、壁際の戸棚かカゴに入れたのだろう。洗い場は、板の間で傾斜をつけた流し板になっている。
江戸散策 │ 第5回 │ クリナップ冷水売り(料金は一杯四文、注文によリ砂糖も入れた)
飲料水として神田上水や玉川上水ができても、江戸のすべてをカバーすることはできなかった。それなら井戸を掘ればいいじゃないかと思うかもしれないが、井戸掘り技術があまり進んでいない時代、とくに下町は海を埋め立てた場所が多く、少々の井戸を掘ったところで、塩気があって飲めるものではない。
井戸水は、もっぱら洗濯や風呂、鮮魚を冷やすための冷し水のような生活用水として使われた。
そこで登場するのが、物売りの一形態である「水売り」とか「冷水売り」である。「ひゃっこい、ひゃっこい」の売り声で売り歩いた。本当に冷たいかどうかは疑問。
飲み水の行商人もいた。上水の届かない本所や深川地域には、上水の余り水を水船業者が水船に積んで運んだ。
水が貴重であることに今も昔も変わりないが、当時の人々は、子どもたちに水の大切さを徹底して教え込んだという。現代人は忘れてしまっていないか、…反省。
江戸は水道が発達していたのに、落語「水屋の富」で水を売る理由は? | スーモジャーナル – 住まい・暮らしのニュース・コラムサイト下町では水屋が頼みの綱
本所・深川などの下町は、上水が隅田川を越えられなかったり、埋め立て地で水質が悪かったりして、飲料水に困るエリアとなっていた。そこで、水道の水を売り歩く「水屋」という商売が登場する。
水屋は、1荷(か)の水を4文で売っていたという。1荷とは、天秤棒の前後の桶2つのこと。その重さの水を、16文だったそばの価格の4分の1で売るのだから、利の薄い商売だ。それでも、得意先が決まっていたので、水屋のほうでも、どの家でいつごろ水が不足するかを把握して売り歩いたそうだ。
現代では、蛇口をひねれば衛生的な水や湯が流れるのは当たり前になっている。しかし、江戸時代は、自宅まで水を運ぶことも重労働で、飲み水は絶えず新しくしておかないと腐ってしまうといったこともあって、水を大切に使っていたのだ。
【長屋に住むのは36歳未亡人】江戸下町を再現した深川江戸資料館のこだわりが半端ない – 江戸ガイドこれが長屋の共同井戸。資料館を訪れたのがお正月シーズンだったので、井戸にも注連飾りがしてあります。
「水道の水で産湯を使った」ことを自慢にした江戸っ子ですが、深川の方面には水道が通っていなかったそうで、この井戸は地面を掘って地下水を引いた「掘抜き井戸」として再現されているのだそう。しかし、もともと埋立地だった深川は井戸を掘っても海水混じりの水が出てきてしまうそうで、井戸の水は飲用には向かず、食器を洗ったり洗濯したりなどに使われたんだとか。
深川江戸資料館のこだわり その4。ガイドさんによる超絶ていねい案内
最後にこれが一番スゴイかもしれない。とにかく館内に数人いるボランティアガイドさんの案内がめちゃくちゃ丁寧。
混雑状況にもよりますが、運がよければほぼ“プライベートガイドさん”状態で案内してもらえます。どんな質問にも気軽に答えてくれますし、いろんな情報をゲットでき、より江戸体験を楽しめます。
外国人観光客の姿も結構あったんですが、さらりと英語対応もしていました。
以上、江戸の暮らしに触れて楽しめるこだわり過ぎの資料館・深川江戸資料館の紹介でした。
都史紀要31 東京の水売り飲料水は日常生活に欠くことのできないものであり、飲料水確保をめぐる環境は、とりわけ都市住民の生活に深い関わりをもっている。
明治三十一年以降、近代水道、いわゆる改良水道の創設により東京市内において給水施設が逐次整えられていくが、この創設工事が完成するまで、飲料水として主として利用されたものは、江戸期以来の水道および掘抜井戸であった。しかし、明治期東京においても、本所・深川地域をはじめ神田・玉川両上水の恩恵に浴すことのない地域や良質の井水がえられない地域があり、そこに住む人びとの多くは、神田・玉川両上水の余水や飲用に適する井水あるいは上流河川の水を飲料水として販売する水売りに頼らざるをえなかった。
本稿は、江戸期以来の深川の水船業者を中心に水屋という呼称で知られている水売り業の明治期における展開と近代水道の普及に伴う衰退過程を考察しようとしたものである。江戸・東京の水道に関しては、『東京市史稿』上水篇をはじめとして幾多の史料集や論考が出されているが、飲料水販売の全般に関する実証的な検討は、これまで十分にはなされてこなかった。
本稿では、もとより残された関連史料が不十分なため、飲料水販売の細部については判然としない点も多多あり、触れえなかった事項も少なくないが、史料紹介も兼ねて、当館所蔵史料を中心に検討を加え、当時の新聞・雑誌等でこれを補足した。本篇の調査・執筆は松平康夫が担当した。
昭和六十年三月
東京都公文書館
江戸の水事情 – 江戸がおもしろい!しかし、深川一帯はほとんどが大川の湿地帯を埋め立てた埋立地なものですから井戸を掘っても出てくるのは塩水でまともな飲み水が出る井戸はほとんどなかったと言われています。
ですから深川の長屋にある井戸の水は洗濯などに使い、飲み水は水売りから買ったというのが「道三掘りのさくら」の話しなのです。
ただ「あかね空」のお豆腐屋さんは深川です。
深川で美味しい井戸水に出会えたというのが話の始まりですからなにか違和感を感じるのですよ。
山本一力・原作の映画 「あかね空」 – doranyankoの茶室「この辺りは昔は海だったから、井戸はみんな塩辛くって飲めたもんじゃないけど、この水はおいしいって評判なんだから」。
「平田屋」には昔からの野望があった。
狙いは豆腐屋の命ともいえる井戸だった。
「あそこの井戸は、深川、いや江戸一番だ」。
江戸時代から現代までの、江戸・東京の水道の歴史|東京都水道歴史館|水道歴史館について
s_history
「井戸」を各国ではなんと呼ぶ? その意味と語源 | 井戸ポンプ情報局つまり井戸という言葉は、「水が止まっている場所の入り口」という意味であるととらえられます。
江戸後期の庶民の暮らし – 英語生活ノおト+αまずは長屋の中心には、井戸と共用の便所、塵芥置場。井戸といっても実際に地下から水をくみ上げているわけではなく、玉川上水など、江戸市内に張り巡らされた上水路につながっています。
水屋と水船:お江戸の科学 「水道(すいど)の水で産湯を使い…」は江戸っ子自慢の台詞であったが、この水道が直接届かなかったのが、本所や深川など隅田川の対岸地域。ここに水を運んだのが「水屋」と「水船」である。上水の余り水は、江戸城のお堀に近い銭瓶橋(ぜにかめばし)付近から放出された。その水を、幕府の許可を得て水船で受け、日本橋川を通って隅田川の対岸まで運んだ。
この水を桶に汲み、天秤棒で担いで各家庭に売り歩いたのが、落語に登場した「水屋」という職業。一荷(いっか)(=二桶)で四文。かけそば一杯十六文の時代、責任が重いわりに利益は薄かった。
江戸の上水:お江戸の科学 開府以来、爆発的に人口が増えた 江戸の町(※)は、もともと海岸に近い湿地を埋め立てた造成地が多かったため、井戸を掘っても塩分の強い水が出るなどして、当初から飲料水の確保に悩まされていた。
そこで1590年、井之頭池を源泉とする日本最初の上水、神田上水(当初の小石川上水から発展したもの)を、1654年には玉川から四谷の水門まで43キロメートルに達する玉川上水を開設。 当時のロンドン(※)を凌ぐ世界最高と言える給水システムを作り上げた。 ポンプなどを使わず、高低差のみで水を運ぶしくみを「自然流下式」と呼ぶが、玉川上水は水源から水門まで43キロメートルもあるが高低差がわずか92メートルしかないことにも、その技術の高さがうかがえる。 以降、亀有、青山、三田、千川の四上水も開設されたが、この四上水は1722年に廃止された。(※)
水が家庭に届くまで:お江戸の科学 上水水門から引いた水は、地下に埋め込んだ石樋(せきひ)や木樋(もくひ)の水道を使って江戸の町に分配された。中央線の駅名である「水道橋」は、神田上水の水門から、神田川対岸に水を渡すための懸樋(かけひ)の名残である。大名(※)や商人など、大口の消費者には専用の呼び井戸へ水が送られたが、長屋へは、木樋からさらに細い竹樋(たけひ)を通して、共同の上水井戸に貯水された。
江戸の発達していた上水道 | 地域情報TOKYOさんぽ「江戸の町にも水道があった」、というと、意外に思われる方が多いのでは ないでしょうか。
ただ、水道といっても現在私たちが使っている水道とは違う ものでした。
江戸の水道は「自然流下式」といって、高低差を利用して川のように水を流す方法でした。
江戸市中では、水は地下に埋められた木製の管の中を流していたので、汲み上げなければなりません。
そのため方々に「水道桝(ます)」又は「水道井戸」と呼ばれる地上への穴があり、ここへ竹竿の先に桶をつけたつるべを下ろし て水を汲み上げていました。
天正18(1590)年、神田川を分流し、神田・日本橋方面に給水する小石川水道 ができました。
これが江戸で最初に作られた水道です。
寛永6(1629)年、小石川水道を拡張し、井の頭池などを水源とした神田上水が完成しました。 この神田上水が神田川の上を横切るために作られたのが水道橋です。
その後、更に江戸が発展し水道需要が高まると玉川上水が作られます。
玉川上水系の地下水路は、江戸市内での総延長が85Kmに達し、神田上水と合計すると、地下水道管の総延長は152Kmにも達しました。
給水地域は、下町の全域(日本橋を中心として、 北は神田、南は京橋・銀座あ たりの地域)と山の手の一部(四谷・赤坂)を含み、すでに100万人に達していた人口のうち60%までは水道で生活できるようになったのです。
当時とても綺麗な水が流れていたので井戸の中に時々魚が泳いでいたそうです。
この様に江戸の水道施設は当時世界でも希に見る発達したものだったのです。
ちなみに、江戸の水道は利用料金があり、武家は碌高に応じ、町方は表通りに面した入り口の広さに応じて支払っていました。
そして熊さん八ッつあんの住む長屋は、なんと大家が一括支払うことになっていたので、地主の三厄(火事、祭礼、水道料金)として、大きな負担をぼやいて いたそうです
江戸の掘割と現代のカフェ│57号 江戸が意気づくイースト・トーキョー:機関誌『水の文化』│ミツカン 水の文化センター沿岸に油問屋があった油堀は埋め立てられ、今は首都高が走る。この油堀周辺の長屋という設定で、深川江戸資料館に佐賀町のまちなみが再現されている。長屋の玄関で目を引くのは大きな水甕。埋め立て地のため井戸を掘っても塩水しか出ないので、飲料と煮炊きの水は「水売り」に頼っていた。久染さんによれば「日本橋より西側にあった銭瓶橋(ぜにがめばし)の下に玉川上水と神田上水の用水が流れ落ち、それを水桶に受けて船で隅田川を越え、売り歩いていた」らしい。
深川江戸資料館に展示されている井戸の模型。飲料には適さず「水売り」に頼っていたと考えられる(提供:公益財団法人江東区文化コミュニティ財団)
水売りの声│23号 水商売の理(ことわり):機関誌『水の文化』│ミツカン 水の文化センター三谷一馬著『彩色江戸物売図会』
中央公論新社、1996より
冷水売り
「たヾいま暑に向かへば、呑水を売る者多し。水桶清らかに、錫、真鍮の水呑碗きらきらしく、辻々に立ちて売る。中に糒(ほしいひ)、葛粉(くずこ)に白砂糖を和して呑ましむ」(『羽沢随筆』) 冷水売りの商いは五月頃から始まります。 売り声は「ひゃっこいひゃっこい」。一碗四文でした。絵に見る冷水売りは、扇地紙売りなどと同じように、二枚目に描かれたものが多いようです。履物はなくほとんどが裸足です。 この絵では、前荷の上に市松模様の屋根をつけ、黒塗りの額には乙姫様と浦島太郎が描かれています。さらに風鈴をつけ、一層飾りたてています。 ぬるま湯を辻々で売る暑い事(柳多留) 看板ほどは冷たい飲物でなかったようです。 盆からはなす水売りの銭(眉斧)
〈出典合巻『児雷也豪傑譚』(安政三年)二世歌川豊国画〉
近世城下町に見る水道の知恵│12号 水道(みずみち)の当然(あたりまえ):機関誌『水の文化』│ミツカン 水の文化センター江戸の玉川上水の場合は、暗渠の取入口と水利用をする末端の溜桝(上水井戸)には、最大32メートルの標高差がありました。取入口の四谷大木戸で標高が34メートル、暗渠末端の海岸低地では地盤高が2メートルです。この間を、木製の暗渠で繋いでいるのです、このままだと末端の溜桝からすごい勢いで水が噴き出すはずです。近江八幡と違って、溜桝での水利用がなくても給水システムは常時水が流れている構造です。実際には、溜桝から水が噴き出ないように途中で水が放流されるのです。玉川上水の水は江戸城堀、下水、吹上御庭とか大名屋敷の泉水に流れるのです。もっとも海岸低地に至る幹線水路の一つは赤坂溜池の脇を通りますが、そこで標高が6メートル程度まで下がりますので、その先は標高差が少なくなって近江八幡と同じような貯水構造になっていると思います。したがって、近世の水道を分類すると、貯水構造主体と流れ構造主体、それからその中間的な構造になると考えられ、すべて低圧・開放給水システムです。
近代水道は、高圧・閉鎖給水システムで、蛇口を開けなければ貯水構造ですが、圧力がかかっていますので蛇口を開くと流れ構造になるのです。近代水道では蛇口を開けっ放しにする浪費が問題になって、蛇口をきちんと閉めなさいと叱られるわけですが、玉川上水の場合は蛇口が無いけれどもそれを堀、下水、泉水などの用水として利用するシステムになっているという点が、今の水道とは違うということです。
玉川上水をはじめ近世の水道では、水源の水、たとえば川の水を、浄化せずにそのまま飲んでいました。今までは「川の水をそのまま飲むとは、江戸時代にはなんと汚いことをしていたのか。そのために、赤痢とか疫痢とかの伝染病が流行ったのだ」と思われていました。そのため近代水道の建設をしなくてはならないと言われたわけです。しかし、古い近代水道の教科書を読むと、水源水質が良ければ浄化施設は省略できると書いてあるのです。
江戸時代のころは、水源となった川の水質も非常に良いものだったのではないでしょうか。江戸時代はおろか昭和30年代くらいまでは、晴天が何日か続くと川底が見え、それが当たり前だったんです。そう考えると、それより以前、江戸時代はもっときれいだったでしょう。私は、近世の水道が悪いと言われる中で「幕末とか明治になってからではなく、施設管理がしっかりしていた時期に水質検査をしたら合格だったと思いますよ」と主張しています。
江戸では水洗トイレではなく汲み取り式で、屎尿は近郊農村の肥料となる商品でした。玉川上水の水は武蔵野台地での開発用水にその大半が使われ、江戸では堀と泉水に使われた量の方が生活用水より多かったという試算結果がでています。近世の水道と近代の水道は異なった思想のもとに造られたと言ってよいでしょう。
食文化としての飲料水│4号 くらしと水の多様な関係:機関誌『水の文化』│ミツカン 水の文化センター福士 少し、日本のミネラルウォーターの歴史についてご説明しましょう。日本でおいしい水を味わうという点では、「温泉水」「酒」「茶の湯」としての利用がベースにありました。江戸時代にはすでに神田上水、玉川上水が引かれ、江戸庶民もおいしい水を享受していたのです。ところがその恩恵にあずかれなかった地域がありました。それは本所、深川辺りの、海面下の地域の人たちです。その不足を、「水売り」が補ったのです。品川にあった井戸からも、水を取っていたという記録も残っていますが、水売りは江戸の風物詩でもあったのです。その歴史があって、「水を販売する」という記述が次に登場するのは、1886(明治19)年のことです。川西市平野に源泉をおく「三ツ矢平野水」が、瓶詰め販売されました。これは天然炭酸ガスを含む、スパークリング・ミネラルウォーターです。1890(明治23)年には、ウィルキンソンという外国人が西宮市生瀬を源泉とする、やはりスパークリング・ミネラルウォーターを売り出しています。同じ頃、福島県の会津若松の只見川の源流近くから湧き水を採って瓶に詰め、瓶どおしを荒縄で縛って牛車に乗せ、横浜の居留地まで運んだという記録があります。
第74話・水屋の富 また,水道をそのまま関口町のような桝(ます)という取水口からくみ取って販売して歩く「水屋さん」という職業があって,水屋が毎日市中を歩き回りました。あの重い桶を前後 2桶で1荷(か)と数えていたそうですが,これでわずかの4 文。仮に比較を申し上げますと,幕末まで優等食品として値上げが絶えて久しくなかった盛りかけそばの16 文の4 分の1 (注3)ですが,これを前後に2桶を担いでやっと4 文にしか売れない。我々現代人から考えたら,こんな重労働はだれも仕手がないだろうと思いますが,それでもお得意がきちっと定着して,そしてどこの家の台所の水がめにはこのぐらいの貯えがまだある,ここにはもうなくなっているということをいちいち,得意先のことをその水屋さんが全部マスターしていたそうです。ですから,独り者の家庭などは家を留守にしても,留守にするときに水がめのふたの上に小銭を置いておけば,そこへ水屋さんが寄って水を補給して,その勘定を持っていってくれるという,台所の水がめまでサービスが行き届いている。江戸っ子の自慢の一つ,「一荷四文の水道の水」がこれでして,そういうぜいたくな水を産湯に使った都会人なんだという誇りなんですね。
『水屋の富』という落語がございますけれども,それも零細な稼ぎの水屋が,なけなしの金をためて富札を買って,千両富に当たって,その千両を引き換えたのはいいけども,いまと違って銀行へ預けるわけにもいかなくて,床下にぼろ手ぬぐいに包んでつっておいて,1 荷4 文の水を売って帰っては,竹ざおの先でコーンとつっついて,「ああ,あった」というのでやっている間に,泥棒から狙われるのではないかというので夜も寝られなくなって,こんなことなら金が当たらなければよかったというので,それである日帰ってきて,コーンとやったら取られてしまっていて,「ああ,これで明日から寝られる」という落ちがあるんですけれども,何か価値観というものがばかばかしいものだと思うんですけど,いかにもうけは少なくても,需要は絶えない堅い商売でありますから,はっきりしたお湯屋や何かのようではないけれども,株のようなものはあったと思います。
●江戸の人と水 榎本滋民氏談 (抜粋)
注3; かけそばの16 文。例えば独身の若い職人の日収が,だいたい江戸中期のころは324 文ということです。幕末には500 文,600 文という日当になったそうですが,そのクラスの職人が住まっている裏長屋の店(たな)賃が,300 文から,よくて600文ぐらいです。1 日半ぐらい働けば1 カ月の店賃は払えるわけです。その店賃すら先祖代々ためているという豪の者が居たのですから……。
2.水屋と水売り
■みずうり【水売り】
白玉と砂糖を入れた冷水を売り歩く商人、江戸時代の夏の風物詩であった。実際は生暖かい水だったようで、これも一杯4文した。
■みずや【水屋】
飲み水を売り歩く商人。
水売りと、水屋とは別の職業であった。混同しないようにしてください。
隅田川から東の墨東(墨田・江東区)地区は玉川上水や神田上水の恩恵に直接恵まれませんでしたが、利根川水系の江戸川から取水して北部の方は水道が引かれていましたが、南部の深川まではいくつかの川を横断しなければなりませんでしたから、引くことができませんでした。
その為、玉川上水の余水を船に積んで、隅田川を渡り、深川の仙台堀川の船溜まりに着けられ、そこから水屋の商人が汲み出して売り歩いた。
水は天秤棒の両端に下げられて売り歩いた。その総量は60リットルで、これがひと単位の”一荷(いっか)”と言われた。 (江東区深川江戸資料館学芸員談。江東区白河1-3-28)
上方落語の「壺算」で一荷の壺を二荷の壺に買い換える話が出てきますが、単位はここからきています。
隅田川から東の江戸すなわち、本所、深川地区では今までの噺のように水屋が活躍していましたが、万治2年(1659)から享保7年(1722)まで、亀有上水が引かれ、本所一帯まで給水されていました。その上水(川)の名前を曳舟(ひきふね)川と言いました。今は墨田区側は埋め立てられて道になってしまいましたが、”曳舟通り”、駅名の”曳舟”に残っています。その先の葛飾区、足立区には今もその後の用水蹟が残っています。
青山上水、三田上水、千川上水、も1600年代に開設されましたが、亀有上水共々江戸時代の半ば前の1722年に廃止されてしまいました。その大きな理由は解っていません。 青山上水、三田上水、千川上水系の地域でも、水道が無くなってしまったので、水屋が活躍しました。
玉川上水は江戸市中を給水された後、日本橋に近い日本橋川に架かる”一石橋”(中央区外堀通り日銀南交差点”常磐橋”と”呉服橋”交差点間に架かる橋)脇で余水を川に滝のように排水していました。同じように神田上水も一石橋の隣、”銭亀橋”(銭瓶橋とも書く、堀は埋め立てられて橋共々現存しない。千代田区大手町2-6日本ビル東辺り)脇で余水を排水していました。
この水を船に積み込んで深川、本所方面に運んで水屋さんに供給していました。日照りが続くと余水が細くなって貯めるのに苦労したと伝わっています。 4文の水が100文を越えた事もあったようです。
この水屋のシステムは明治の31年(1898)淀橋浄水場(新宿区、新宿駅西口前)が完成し、東京の近代水道の幕開けまで続きました。
(資料;東京都水道歴史館にて)
江戸は水道が発達していたのに、落語「水屋の富」で水を売る理由は? | スーモジャーナル – 住まい・暮らしのニュース・コラムサイト本所・深川などの下町は、上水が隅田川を越えられなかったり、埋め立て地で水質が悪かったりして、飲料水に困るエリアとなっていた。そこで、水道の水を売り歩く「水屋」という商売が登場する。
水屋は、1荷(か)の水を4文で売っていたという。1荷とは、天秤棒の前後の桶2つのこと。その重さの水を、16文だったそばの価格の4分の1で売るのだから、利の薄い商売だ。それでも、得意先が決まっていたので、水屋のほうでも、どの家でいつごろ水が不足するかを把握して売り歩いたそうだ。
現代では、蛇口をひねれば衛生的な水や湯が流れるのは当たり前になっている。しかし、江戸時代は、自宅まで水を運ぶことも重労働で、飲み水は絶えず新しくしておかないと腐ってしまうといったこともあって、水を大切に使っていたのだ。
へっつい・水瓶・井戸水瓶・共同井戸
水瓶・共同井戸
長屋の井戸は共同ですので、飲料水は各家の水瓶に汲み置きしておきました。場所によっては水質が悪く、飲料水として井戸の水が使えない場合 もあり、そういう所では水売りが、天秤棒に玉川上水あたりの水を入れた桶をかついで町々を売りに歩きました。落語でも「水屋の富」という噺の中でその様子が描かれています。
飲料水や煮炊きの水は水瓶から使いましたが、台所が狭いので魚や野菜の下ごしらえ、また洗い物等は井戸端で行いました。ここは女房達の社交場、井戸端会議は毎日開催されました。
また、七月七日の七夕の日は年に一度の井戸浚い(いどさらい)、長屋の連中総出で井戸の底に溜まった土砂などをきれいにしました。
(資料提供:深川江戸資料館解説書より)
落語の中の言葉153「裏長屋1/4・井戸」: 落語大好き 埋め立て地の本所、深川あたりでは、水質も悪く、井戸も掘れないところから、飲料、炊事用の水を売る行商人が廻って来た。
此時、巳ノ刻(午前十時ごろ)の鐘ボヲンボヲン
水屋「今日は、ようございますかな。水屋でございます」
りき「水屋さん、看て入れておくれよ」
水屋「ハイハイ、かしこまりました。水や宜しう。はい、半荷(一荷は、天秤両端の桶。半荷は、一方の桶)の口もございましょう」 (為永春水『春告鳥』四編)
というのが、その光景で、
そこが江戸一荷の水も波で売り (柳72)
という句もあるように、一荷の水が、波銭(四文銭)という安さだった。(興津要『大江戸長屋ばなし』)
井戸を掘ってもいい水が得られないのは本所・深川に限らない。大川手前の江戸の町のなかにもある。
ついでにいうと裏長屋にあった井戸は車井戸のような立派なものではなく、屋根もなくただ側だけのものだったようである。長い竿の先に桶とつけたもので水を汲んだらしい。
菱川師宣『江戸雀』六巻 延宝五年1677刊
深川江戸資料館に再現されたもの
また年に一度七月七日長屋総出で井戸替えを行ったという。
Alcock "The capital of the tycoon"を探している… | レファレンス協同データベース
大磯「船橋屋織江」花吹雪と柿の種~今年もお世話になりました: 近所の和菓子屋さんの豆大福、パン屋さんのあんぱん江戸時代、稀代の名店と謳われた菓子舗こそが「船橋屋織江」。
広く知られているのは天保12年(1841)に出版された近世菓子製法書の最高峰といわれる『菓子話船橋』。深川佐賀町にあった店の主人自らが著した、当時としても画期的な、煉羊羹をはじめ秘伝の数々を公開した書物で、現在に繋がる菓子づくりのバイブルと言っても過言ではありません。
江戸の社会では重要なポジションにあった御用菓子司のなかで、とりわけ指折りの名店だった船橋屋織江ではありますが、深川の店は近代に入ってから閉業。
季節広報誌「あじわい」ajiwai|資料に見る和菓子 最後にご覧いただくのは「船橋菓子の雛形」。深川佐賀町にあった船橋屋織江が、明治十六年(一八八三)に作成した二冊組の菓子見本帳です。煎餅、落雁、有平糖などの干菓子のほか、慶事に用いられる三つ盛や五つ盛が目を引きます。
松竹梅・菊といった吉祥や季節の果物をかたどった菓子に、羊羹を組み合わせたりしたもので、一部には、折箱の見本も描かれています。こうした三つ盛や五つ盛の図案は、近代以降の見本帳によく見られます。西洋画風に陰影をつけて、立体的に見えるよう描かれた意匠は、重さすらも感じさせるようなリアルさです。
最近ではインターネット公開をしている館も増えており、誰でも手軽に史料の画像を見られるようになりました。皆さんも是非ご覧になってはいかがでしょうか。
*「御蒸菓子図」と「船橋菓子の雛形」は、所蔵館のウェブサイトで閲覧できます。
きたろう散歩 | SSブログ本シリーズ の(5)をアップした後、まだバラ状態のままの資料を整理・ファイルをしていました。その時に、深川江戸資料館の観覧券を資料館の栞にホッチキスで留めようとして、瞬間観覧券の裏を見た時に“あっ”と驚きました。今まで約3ヵ月間も探していた、本所深川方面の絵図(俯瞰図)が掲載されていたのです。
#02深川江戸資料館切符裏オリジナル.jpg
なーんだ、探し求めていた資料はこんな身近にあったのか?とチルチルとミチルの青い鳥探しの心境でした。この観覧券の裏の絵は船橋屋織江著「菓子話船橋」[天保12年(1841)刊]に掲載されているものです。深川佐賀町の菓子の名店船橋屋は文化初めの創業で、練羊羹を売り物としていました。本書はその船橋屋の主人が、店に伝わる菓子の製法を、素人の菓子好みの人々が作れるようにと分量付きで紹介したものです。
http://www.library.metro.tokyo.jp/17/008/17700.html
因みに、この船橋屋は、現在、亀戸にある「船橋屋」とは関係がないとのことです。
本の綴じ代の部分をカットしてつなげたものが、図#03です。絵は永代橋及び深川佐賀町を南西方向から、北東方向を俯瞰で見下ろすように描かれています。
著者のお店(船橋屋)が画面左に、右手前に永代橋が大きく描かれています。船橋屋は佐賀町にあったという事実から、画面中央の橋は下之橋であることが分かります。また、左端の橋は中之橋と推定されます。また、なんと火の見櫓も描かれているではないですか。それは、下之橋のすぐ左(北)のところに描かれていました。まさに、この絵は国芳が描いたほぼ同じ場所を、国芳の視点より約800m南のところ(隅田川西岸・永代橋の南側)から描いています。
国芳が描いた三ツ股の図では、中之橋があって、すぐ右に火の見櫓があって、そのすぐ右隣に謎の高い塔が描いてありました。しかし「菓子話船橋」に掲載された絵では、その謎の塔は見当たりません。もっとも、国芳が描いたのは、天保二年(1831)、「菓子屋船橋」は天保十二年(1841)刊行ということで、描かれた時期も違うので、国芳が描いた謎の塔、すなわち井戸掘りのための櫓は、一時的な建築物なので、「菓子屋船橋」に描かれていなくとも何の不思議はありませんが・・・
ここで、もう一度#01の線画を、見て頂きたいのですが、本シリーズ(2)に掲載したときには、説明として、「具体的な場所を描いているのではない」ときたろうは結論づけていました。しかし、これはきたろうの大きな勘違いであることが分かりました。なぜかというと、菓子話船橋に掲載の絵に基づいて、江戸期の「本所深川絵図」に船橋屋の位置と火の見櫓の位置を描き入れました。次に、この地図上で火の見櫓、永代橋、富士山の位置関係を良くみると、な、なんと#01の線画は佐賀町の火の見櫓の傍から南西方向を眺めた絵であることがわかりました。(#05)
すなわち、「菓子話船橋」に掲載の絵は、深川・佐賀町を南西方向から北東方向を俯瞰して描いた絵で、それに対し深川江戸資料館のビデオ視聴コーナーの所の線画は深川佐賀町から南西方向、永代橋、富士山の方向を描いた絵で丁度、ビューポイントが正反対の位置関係になっていることが分かりました。 ということは、#01の線画で画面左手に流れている川(堀)は油堀川でさらに左の画面外には下之橋が架かっていると考えられます。
(本シリーズ(5)地図#03参照)
菓子話船橋に掲載の絵図と、国芳の描いた三ツ股の図の対岸深川の様子は、若干異なります。 菓子話船橋の絵では、本所深川の北の方から、中之橋、(船橋屋)、火の見櫓、下之橋、永代橋という順に並んでいます。国芳の絵では、中之橋、火の見櫓、(謎の高い塔)、永代橋と並んでいます。
どちらが、信憑性が高いかと言えば、菓子屋船橋の方が信憑性が高いと思われます。 前回も指摘しましたが、国芳の絵では、橋の架かっている川(堀)の巾と橋と橋の距離等に整合性が見られないことが分かっています。また、菓子屋船橋の絵は、この地区の絵地図的なものとして掲載されているのに対し国芳の絵は風景画として美術的な要素を求めていると考えられるからです。
結局、国芳の謎の塔の解明の鍵は、お水番さんの指摘どおり深川江戸資料館に揃っていた訳です。それを、きたろうも資料館の女性職員も気付ず見逃していたという事でした。
この事実を、きちんと認識してから、観覧券の裏面の絵と、ビデオ視聴コーナーの線画を見ると、これらが、なんと生き生きと見えたことか!!
歌川国芳『東都三ツ股の図』の塔について – 軌道エレベーター派 歌川国芳の『東都三ツ股の図』は、東京スカイツリーが描かれているなどと、何かと世間をにぎわせます。10月22日付読売新聞に「浮世絵にスカイツリー? 正体は『井戸掘り櫓』か」という記事が掲載されており、この記事の情報を補完するような感じで、”塔” について考察してみたいと思います。
塔そのものについては、記事にも、多くの浮世絵ファンブログなどにもあるように、井戸掘りの櫓というのが定説となっているようです。記事では国芳自身が描いた『子供遊金水之掘抜』が紹介されていますが、高さは12~15mくらいはありそうです。
葛飾北斎の『冨嶽三十六景 東都浅草本願寺』には、雲の上にまで伸びているかのような高い櫓が描かれていますし、歌川広重『東都名所坂つくしの内 江戸見坂之図』や、渓斎英泉の『江戸日本橋ヨリ冨士ヲ見ル図』などでも、櫓がチョー高く描かれています。
井戸掘り櫓に関して言うと、国芳よりほかの絵師の方がよっぽど高く描いてるじゃんか、と言いたいわけです。
多くの検証記事で言われているのが、この辺りは埋立地なので、井戸水を得るためには櫓が高くなったのでは、ということです。ぼてふりで水売りもあったそうなので、井戸掘りが頻繁に行われていたのかは不明ですが。
富嶽三十六景 – Wikipedia4. 東都とうと浅艸あさくさ本願寺ほんがんじ