歴史に見る「東京湾の津波」 大半は1~2メートル :日本経済新聞 「首都圏地震の場合の東京湾への津波の高さは1メートルから1.5メートル」――。東京大学地震研究所元講師の羽鳥徳太郎氏はこう予測する。
幕末の安政東海地震(M8.4、震源は駿河湾から遠州灘沖)は房総半島から四国にかけて津波が襲来し伊豆に停泊中のロシア船ディアナ号が沈没したりした。しかし江戸では隅田川河口の浜町河岸(中央区)で水位が1~1.2メートル上がって路上にあふれ、船が破損した程度だった。深川(江東区)でも水があふれたが家屋までは到達しなかったとの古文書が残っている。
相模湾沖が震源となったM7.9の関東大震災でも熱海で12メートルの津波が観測されるなど湘南地域は津波に襲われた。しかし東京湾では干潮に向かっての津波だったため被害はほとんどなかったようだ。それでも「津波の死者が1千人を超えた」「上野の山の下まで津波が来て渦を巻いている」などの噂が流れたという。市民の津波に対する恐怖の大きさをうかがわせる。
1960年のM9.5のチリ地震は日本各地に津波を起こし142人が犠牲となった。しかし東京湾は比較的低い津波高約1.6メートルにすぎなかったという。
ただ波高2メートルを超えると大型船舶にも流出波損などの被害が出る。地震時には潮流が毎秒2メートルを超え小型船舶が巻き込まれる危険が生じる。羽鳥氏は「港内に係留する船舶の安全確保が重要」と訴えている。
津波警告の碑 州崎神社: 江東レポート1791年9月、暴風雨による高波と上げ潮が重なり津波となって押し寄せ、多数の犠牲者が出た、幕府は州崎弁天社から西のあたり一帯を買い上げて空地としてこれより海側に人の住むのを禁じ、空地の東北地点(州崎神社)と西南地点(平久橋の袂)に波除碑を建てた
万歩計 散策点描 江戸・東京の事件、災害、刑場巡りH2209 第3部 日比谷~永代橋~洲崎十万坪H220929 永代橋~門前仲町~東陽町(門前仲町~洲崎神社~東陽町)洲崎神社 津波警告の碑
洲崎神社 波除碑
寛政3年(1791年)9月4日、深川州崎一帯を襲った台風による高潮により、付近一帯の家屋がことごとく流され、多くの死者、行方不明者が出た。幕府は州崎弁天社から西の一帯の東西285間、南北30余間、総面積5万5千坪余りを買い上げ空き地とし、これより海側に人が住むことを禁じた。そして空き地の東北地点(州崎神社)と西南地点(平久橋袂)に波除碑を建てた。当時は高さ6尺、角1尺であったが、材質が砂岩で脆く、関東大震災と戦災で破損が著しい。
洲崎神社|江東区木場の神社、旧村社、津波警告・波除碑洲崎神社は、桂昌院(徳川五大将軍綱吉公の生母)が崇敬した江戸城中紅葉山の弁財天を、護持院(現護国寺)隆力の進言により元禄13(1700)当地に遷座して創建、当地が海岸に浮かぶ弁財天であったことから、文人墨客の参詣を集めていたといいます。明治5年に村社に列格、昭和43年い現社殿を造営しています。また、寛政3年(1791)に押し寄せた津波により、当地周辺は多数の死者行方不明者を出し、江戸幕府は当地を東北、平久橋の袂を西南とした一帯を買い上げ、居住禁止区域とした際の波除碑(津波警告の碑)が残されており、東京都指定文化財となっています。
波除碑
寛政3年(1791)9月4日、深川洲崎一帯に襲来した高潮によって付近の家屋がことごとく流されて多数の死者、行方不明者が出た。
幕府はこの災害を重視して洲崎弁天社から西のあたり一帯の東西285間、南北30余間、総坪数5,467坪(約1万8000平方メートル)を買い上げて空き地としこれより海側に人が住むことを禁じた。そして空地の東北地点(洲崎神社)と西南地点(平久橋の袂)に波除碑を建てた。当時の碑は地上6尺、角1尺であったという。
石碑は砂岩で脆く、震災と戦災によって破損が著しい。現在地は原位置から若干移動しているものと思われる。
建設は寛政6年(1794)頃で碑文は屋代弘賢によるものと言われている。(東京都教育委員会掲示より)(境内掲示より)
POCHIPRESS PHOTO+ 江東区・平久橋と洲崎神社の波除碑 2008年12月2日(火)この高潮災害について、ネットで情報を得ようとしても無駄でした。
足で歩くこととしかるべき文献に当たることに勝るものはありません。
こんなとき『東京市史稿』があればよいのですが、手許にあるものでは。
『武江年表』(ちくま学芸文庫『定本武江年表』今井金吾校訂)から引きます。
○九月四日(陽暦10月1日)、大嵐、昨夜中より大雨、南風烈く、八月より強し。
巳刻、高潮、深川洲崎へ漲りて、あはれむべし、入船町・久右衛門町壱丁目弐丁目と唱へし吉祥寺門前に建つらねたる町家、住居の人数と共に一時に海へ流れて、行方を知らず。弁才天社損じ、拝殿・別当所、其外流失。其かへしの浪、行徳・船橋塩浜一円につぶれ、民家流失す。其外諸方家屋吹損じ、川々水溢る。昼時にいたり潮引く。関東筋すべて洪水あふる(諺に云、蟹陸へ多く這上るは、津波の兆也と。此時既にしかりといへり。心得べし)。洲崎の地、其后高浪の変計りがたしとて、西は入船町限、東は吉祥寺門前に至る迄、凡長弐百八十五間余の家居を取はらひ、畾地になし置る(此内、西のかた入船町跡は、渋江氏薬草栽付場となれり)。
筠庭云、九月三日雨ふり、その夜、大風雨。四日、雨小ぶりになりしかど、風猶はげしく、巳刻頃、大ぶりとなり、八月六日夜よりは強く、昼より晴。此節、廻船三艘吹流し、永代橋を突抜け、一艘は橋間にかゝり、二艘は中洲まで流る。橋間にかゝりし船は、八月六日、相川河岸に吹上られたるが、深みに出し兼てありしを、又々風波の為に深みに出たり。是ばかりはこぼれ幸といふべし。又、新堀御舟倉吹潰し、洲崎辺は先の嵐に残りたる人家残らず流失。八月の水より一尺余も高し。
(中巻 pp.126-7)
洲崎 (東京都) – Wikipedia寛政3年9月4日(1791年10月1日)、洲崎一帯を大津波が襲い、周辺家屋を呑み込み多数の死者を出す大惨事が発生。幕府は以後、津波に備えて洲崎一帯に家屋の建築を禁止したが、養殖業は依然として盛んに行われ、また潮干狩りの名所として発展していく。江戸後期には「東に房総半島、西は芝浦まで東京湾をぐるりと手に取るように眺められる景勝地」として発展し、初日の出の名所として人気を集めた。
波除碑(なみよけのひ)
洲崎弁天の境内に建つ江戸時代中期の石碑。1791年9月4日にこの一体を襲った津波の惨状から、洲崎弁天から西側一帯を、津波に備えての冠水地帯として居住を禁止し、災害の惨状を記録した2本の波除けの碑を設置した。現在このうちの1本が洲崎弁天の境内に移設され現存している。
2011-04-21 – りぶろくあれ?地震による津波じゃないの?寛政3年には江戸・関東では地震がおきたというページが見つからなかったし…。
◆東京湾には津波がこない!? | OKWave
http://okwave.jp/qa/q6628048.html
の回答の中に、興味深い調査結果の情報がっあた。
◆歴史地震研究会
http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/
の
◆「東京湾・浦賀水道沿岸の元禄関東(1703)、安政東海(1854)津波とその他の津波の遡上状況」
http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_21/P037-045.pdf
を読んでみると、隅田川が溢れ、船が揺れて死者がでた記録もあるが、高さが2mを超えることは考えにくいと結んである。
東京、とくに江戸川や江東区など海抜が低い地域は津波よりも、地震による堤防の決壊の方が怖いよなぁ…津波がこなくても海に沈むし。
東京湾には津波がこない!? | OKWave東京湾は入口の広さに比べて湾内側が広がっているため、津波の高さは相模湾沿岸に比べて低くなります。
これは関東地震や、関東南部での最大地震と想定される元禄関東地震で発生する津波シミュレーションでもはっきりしています。
とはいっても、最大波高3m程度の津波が湾内まで来るとシミュレートされています。今回の地震でも東京湾内で波高1m以上の津波が観測されています。東京湾岸は高潮対策として東京湾平均海面から5mの高さの堤防が多くの場所で作られていますから、ある程度は対策できているとはいえますが、たとえば地震による液状化などで堤防が破損していたりすると、津波被害が生じることが考えられます。
歴史地震研究会
東京湾・浦賀水道沿岸の元禄関東(1703)、安政東海(1854)
津波とその他の津波の遡上状況
羽鳥 徳太郎*
<引用者略>
a) 1703 年元禄関東津波(図1,2)
元禄地震(M8.2)は12 月31 日の深夜2 時ごろ
房総南部沖で発生し,相模湾岸・房総九十九里浜
が大被害に見舞われた.津波マグニチュードはm
=3 と格付けられている.東京では隅田川へ遡上し,
本所・両国・深川で道路上に溢れ,1.5m と推定さ
れる.品川や千葉県浦安・船橋も町内へ遡上して
おり,2m 程度あったであろう.野毛(横浜)で
は流失家屋があり,津波高は3-4mとみなされる.
湾口の浦賀では町内や田畑に浸水し,津波高は
4.5m であった[神奈川県防災消防課(1984)].目
視記録から,長周期波であったようだ.間口(三
浦市)では町内へ200-400m 遡上しており,6-8m
と推定された[羽鳥(1975)].
一方,南房総の津波高はさらに上回り(図3),
上総湊~館山間では5-10m に達し,外房沿岸と同
じように突出している[羽鳥(1975,1976)].
b) 1854 年安政東海津波(図1,2)
安政東海地震(M8.3)は,12 月23 日9 時ごろ
遠州灘で発生した.大規模な津波を伴い,静岡・
愛知・三重県沿岸に大被害をもたらした.津波伝
播図によると[羽鳥(1984)],伝播時間は三浦半
島西岸で30 分,南房総では35 分になる.
東京では,隅田川河口の浜町河岸(中央区)や
深川(江東区)に溢れ,山谷堀(台東区)にも上
がり,船が破損した[宇佐美(1976)].浦安では,
境川が溢れたとある.津波高は1m 程度と推定さ
れ,元禄津波より下回る.神奈川県下では生麦(横
浜)で海岸に上がり,1-2m とみなされる.浦賀で
は床上浸水があり,3m と推定された.また外房
の鴨川で町内広い範囲に遡上しており[ 羽鳥
(1976)],3-4m に達した.これは,屈折効果で
増幅されたのであろう.なお,内房沿岸の津波史
料は見出されていない.
c) 検潮記録例
1923 年9 月1 日の関東地震(M7.9)に伴う津波
(m=2)は,鎌倉・熱海・伊東など相模湾沿岸に
大きな被害をもたらした.図4 には,東京区内と
千葉市における検潮記録[寺田・山口(1925)]を
示す.各地の全振幅値は芝浦130cm,深川80cm,
呉服橋50cm,千葉110cm,周期は約60 分である.
幸い干潮時の津波であったので,市街地の影響は
免れた.そのほか,横須賀の全振幅値は160cm で
あった.
1944 年12 月7 日13 時35 分,熊野灘で発生し
た東南海地震(M8.0)による津波(m=2.5)は,
関東地方でも観測され,図5 に東京(築地)・横
須賀・布良の検潮記録を示す.全振幅値は東京
50cm,横須賀95cm であり,布良では280cm と屈
折効果で大きく増幅されている.東京では湾のセ
イシュが励起され,70 分の長周期波であった.
<引用者略>
§5. むすび
東京湾・浦賀水道沿岸における元禄関東津波・
安政東海津波の状況を,1923 年関東地震津波など
と比較検討した.両津波は湾内で顕著に減衰する
が,東京では隅田川河岸に溢れ,船が転覆して死
者も出ている.市街は地震災害と複合して混乱し
たことであろう.東京での大正津波の周期は約60
分であり,元禄・安政津波も長周期波であったよ
うだ.元禄・大正の地震津波は東京湾内では直下
型であるが,遠方の津波が浦賀水道に入射すると,
湾口の布良から東京までの伝播時間は約70 分に
なる.
東京での津波高が,2m を超える可能性は低い
であろう.しかし長周期波が道路に上がれば,漂
流物が交通障害になる.また地震で河川堤防や水
門が決壊すれば,標高ゼロメートル地帯が長期間
冠水する恐れがある.津波シミュレーションによ
れば[相田(1996)],東京港内の台場・有明の水
路で,流速が2-3m/s に達する試算がある.船舶の
避難対策が課題になろう.
<引用者後略>
Amazon.co.jp: 江戸・東京地形学散歩 災害史と防災の視点から 増補改訂版 (フィールド・スタディ文庫2): 松田 磐余: 本
江東ふるさと文庫3
古老が語る江東区の災害
昭和62年3月25日発行
発行 東京都江東区総務部広報課 製作 (株)下町タイムス社 頒価800円
豊洲図書館からネット予約により借り出し。
水害偏には、大正六年の津波(対象六年10月1日の台風による津波)と、明治43年の水害(明治43年8月10日の水害)についての聞き書きが収録されている。
6ページには、大正6年の津波―陸に吹き上げられた明治丸(商船学校の練習船 越中島町)の写真が掲載されている。
32ページからの田中銀之助氏(明治34年4月5日、亀戸町生 亀戸五丁目在住)の津波―大正6年の話「43年の水より高かったと覚えていますよ。砂村でだいぶ死んでいる。砂村は、電信柱ぐらいの高さまできちゃったんですから。ありゃ、波じゃなくて、こっちが真空状態んなった時か何かの、そういう作用があって、海の水をぐっと引っ張るような特別の波じゃないんですかね。特殊な現象でくる水だから、普通のじゃない。でも引きは早かったです。」
震災 深川南部編
147ページからの鈴木次郎氏(明治42年7月11日、佐賀町生 元回漕業 東陽5丁目在住)
「地震のあとに津波
小学校二年だったかね。佐賀町にいたんですけど、グラッときたとき、船がいたから、船の上へ飛び乗ったんです。両側に倉庫があって、陸(おか)が、川の水から四、五尺あったんですね。川の水が陸へ上がって、船の綱が、みんなとれちゃって、ぶつかっちゃうんです。陸みると、歩ってる人が、はっちゃってる。ハーッ、ハーッと女の人が泣いている。親父も道具積んで、乗ってました。
地震のあと、津波がきたんです。それで、隅田川の船がみんなこの中に逃げ込みましたね。二時間ぐらいで、水が引けたのですが、船がつかえてでられない。相生橋のほうへぬけようとしたら、家があったもんだから、あぶら堀のあたりで、船が焼けちゃった。七百何人と死んじゃったんです。ぼくは川へ入った。熱かったですよ。船が燃えるのと、陸が燃えるのとでね。最初のうちは、南無妙法蓮華経といってた年寄連中が、しまいにゃ、うなり声だけ。おふくろは、二つか三つの子供を抱いて、川に入って助かったんです。避難して乗ってた人が、10人ぐらいいたんですが、上がって死んだ人もいるし、あんまり早く飛び込んで、沖へだされて、死んだ人もいた。」
157ページから中村将一郎氏(明治40年3月11日、門前東仲町生 もと川並(筏師) 木場六丁目在住)
「飛行機学校の原っぱへ避難
筏見回っていたら(当時十六歳)、東京湾の木場へ筏持ってきた人が、「あんたたち木場の連中は、何をやってんだ」って。「深川のほうは火事で大変だぞ」って。それでかけ足で帰ってきたけど、永代橋は渡れない。戻って、渡し場を渡って、月島へぬけて、月島は燃えてなかった。門前仲町まできたら、もうどんどん燃えてて、また戻って、古石場ぬけて帰ってきた。家はつぶされちゃったんだ。家族はみんな、電車が一番安心なんだって、中にいたの。ちょうど終点だったからね。
そのうち、つもじ風が吹いてね。こっちに燃えてきちゃったから、つぶれた中から、おはちだけもって、逃げてったの。塩崎町は原っぱでね。飛行機学校が三つあったんだよ。その原っぱで、夜を明かした。
あくる日、警察へいって、切符をもらっていくと、材木を入り用なだけ売ってくれたのよ。だから、みんなどんどんバラックおっ建ててね。」
158ページから新田満蔵氏(明治44年6月28日、古石場生 もと石工 牡丹一丁目在住)
「鳥がバタバタ落ちる
あの時、ぼくは六年生だからね。学校へいって、顔を合わせて帰ってきて、しばらくして、親父や使用人が川っぷちで仕事をしてたんで、「ご飯だよ」っていって、家のほうに戻ってきたとき、ワウウウッてきたわけだ。こんな大きな地震っていうのは、生まれてはじめてだしね。感覚として、現実じゃない。頭がポーッとどこかに飛んでいくような、夢の中にいるようなね。「どうなるかなあ」って子供ながら思って。戻ってきたら、そこにあったレンガの倉庫が、ドカーンッてこちらに倒れちゃった。道路がふさがっちゃって、こっちの軒先のほうにかかって、瓦礫ばかり。そばにいたおふくろがしゃがむのを無理に、手ひっぱってきたの。もう五、六秒おそかったら、下になっちゃう。間一髪だね。命冥加のあるものは、難をのがれてね。死ぬも生きるも決まっているようなもんじゃないかと思うね。
そいて、こっちへ逃げてね。鳥がバタバタ下へ落っこちゃうんだ。空気も変動があるんだ。大地震のときには、鳥も飛ばないっていうような話も、おとなが話してたけどね。津波もくるんじゃないかって話もでたから、川のヘリを見ていたの。そしたら、成田鉄工場に機械をなおしにきている船があって、ここにいるとあぶないから乗ってっていうんで、近所の人四十人くらい乗っかったね。わたしも乗っかってたわけだ。そしたら、1メートルくらい水がきたね。ずいぶん速いんだよな。普通の台風のときの水、こんなに速くないんだ。心配して見ていると、徐々にもとの水位まで下がったんだけど。
それから、あっちもこっちも煙が上がってきてね。とうとうこの辺も七時半ごろ、火事になった。すると、知ってる肉屋の燃えるのを見て。もうだめだからって、みんなで手車に一日二日の米を持って、商船大学の構内に入って避難したんだ。そしてら、あそこも燃えちゃった。あの時は、ぼくらも死んじゃうかと思ったね。暑くて、ジリジリして、脂汗ね。海の水を何人か交互に、長い柄の桶でしゃくっちゃ、みんなにかけてくれる篤信な人がいたんで、助かった。
二日の朝になると、きれいにここら辺焼けちゃったんですよ。今度は、腹へってしょうがない。明治丸の知り合いの水夫が塩で飯をおにぎりにして、朝めしだけごちそうしてくれたの。そのうち、糧秣廠の牛缶を持ってきた。いい肉が入っているんだ。深川の佐賀町には、玄米がいくらでもあった。玄米は、普通の飯のようにやわらかくできねえから、少しずつかんだ。大豆もあった。
大震災に関する詔書
三、四か月で、学校も開設された。バラックで、むしろ敷いてね。大震災に関する、天皇陛下から下された詔書っていうのがあるわけだよ。それを先生が読んで、解釈して、「わかったか。こういうわけで、天皇陛下が非常に、大震災にあった国民に、ご心痛のあまり、こういう詔書がでたんだから、おまえたちも、今は大変だろうけど、しっかりした気持ちで乗りきっていかなきゃいけない」っていわれてさ。漢語が入ってかなり難しいものだったけど。読まされてね、おれは、一番目か二番目にできた、そういう思い出があるよ。」
災害とは違う話、上里町|郷土の偉人・西崎キク一年後、新聞広告で見た「飛行機講義録」を取り寄せ独学で勉強をはじめた、そんなとき、尾島飛行場で知り合ったテストパイロットから、東京立川陸軍飛行場でおこなわれる新型飛行機の試験飛行に招待されました。はじめて飛行機に乗ったキクは、その感動が忘れられず、昭和6年、両親の猛反対をおしきって、東京深川の第一飛行学校へ入学しました。小栗飛行学校を経て、昭和七年、愛知県新舞子の安藤飛行機研究所の練習生となり、翌昭和8年8月17日ついに念願だった二等飛行機操縦士試験に合格、二等飛行機操縦士技両証明書第326号の免許を得て、日本最初の水上飛行機操縦士となりました。