羇旅の意味 – 古文辞書 – Weblio古語辞典羇旅
分類文芸
歌集の部立(ぶだ)ての一つ。旅情を詠んだものを集めたもの。最初の勅撰(ちよくせん)和歌集『古今和歌集』に設けられ、以後、各勅撰和歌集の部立てとなった。連歌集・句集などもこれを踏襲している。
禁秘抄 – Wikipedia『禁秘抄』(きんぴしょう)は、第84代順徳天皇自身の手による有職故実の解説書である。現存するのは、上下二巻の体裁をとっているが本来三部構成であることから三巻であったとされる。成立は1221年(承久3年)である。『禁中抄』(きんちゅうしょう)・『建暦御記』(けんりゃくぎょき)などの別称もある。
概説
作者である順徳天皇(1197年 – 1242年)は、後鳥羽天皇の第三皇子として生れ、年少より学問を好み、和歌にも秀で、『八雲御抄』他、歌集・歌学集を編纂している。『禁秘抄』は朝廷における儀式作法の根源・由来を究め古来よりの慣習を後の世代に残さんとしたもので、本書完成直後に承久の乱を起こしている事でもわかるように、天皇政治復興の情熱がこめられ、次代の皇子に帝王の道を伝えようとしている。
宮中の毎日もしくは毎月の恒例行事の次第を始め、配流や改元などの国家的な行事の作法、宮中の宝物・施設や組織のあり方、公文書の発給手続、天皇として学ぶべき学問・芸術まで天皇が知っておくべき有職故実を解説している。冒頭部分では「およそ禁中作法、まず神事、後に他事」としており、神事を最優先にすることが天皇の務めであると定義している[1]。
順徳らが没落した後の歴代の天皇もこれを尊重するべきものと考えられており、江戸時代の『禁中並公家諸法度』の第一条は本書「諸芸能事」節の内容とほぼ同じである[2]。
本歌取 – Wikipedia本歌取(ほんかどり)とは、歌学における和歌の作成技法の1つで、有名な古歌(本歌)の1句もしくは2句を自作に取り入れて作歌を行う方法。主に本歌を背景として用いることで奥行きを与えて表現効果の重層化を図る際に用いた。
例えば、
『古今和歌集』巻2 94番歌 紀貫之[1]
「三輪山を しかも隠すか 春霞 人に知られぬ 花や咲くらむ」
『万葉集』巻1 18番歌 額田王[2]
「三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなも かくさふべしや」
この2作品を比較すれば明らかなように、貫之は額田王の第1句・第2句をそのまま採用して第3句以後を自作としている。
こうした本歌取については様々な受け取り方があった。六条藤家の藤原清輔はこれを「盗古歌」(こかをとる)ものとして批判的に評価した。これに対して御子左家の藤原俊成はこれを表現技法として評価している。
俊成の子である藤原定家は、『近代秀歌』や『詠歌大概』において、本歌取の原則を以下のようにまとめている。
本歌と句の置き所を変えないで用いる場合には2句以下とする。
本歌と句の置き所を変えて用いる場合には2句+3・4字までとする。
著名歌人の秀句と評される歌を除いて、枕詞・序詞を含む初2句を本歌をそのまま用いるのは許容される。
本歌とは主題を合致させない。
本歌として採用するのは、三代集や『伊勢物語』、『三十六人家集』から採るものとし、(定家から見て)近代詩は採用しない。
『貞観政要』(じょうがんせいよう / ぢょうがんせいよう)は、中国唐代に呉兢[注 1]が編纂したとされる太宗の言行録である。題名の「貞観」は太宗の在位の年号で、「政要」は「政治の要諦」をいう。全10巻40篇からなる。
中宗の代に上呈したものと玄宗の代にそれを改編したものと2種類があり、第4巻の内容が異なる。伝本には元の戈直(かちょく)が欧陽脩や司馬光による評を付して整理したものが明代に発刊されて広まった「戈直本」と、唐代に日本に伝わったとされる旧本の2系がある。日本以外にも朝鮮・女真・西夏の周辺諸語に訳されるなど大きな影響を与えた。
大要と背景
本書は、唐の太宗の政治に関する言行を記録した書で、古来から帝王学の教科書とされてきた。主な内容は、太宗とそれを補佐した臣下たち(魏徴・房玄齢・杜如晦・王珪[注 2]ら重臣45名[1])との政治問答を通して、貞観の治という非常に平和でよく治まった時代をもたらした治世の要諦が語られている。
太宗が傑出していたのは、自身が臣下を戒め、指導する英明な君主であったばかりでなく、臣下の直言を喜んで受け入れ、常に最善の君主であらねばならないと努力したところにある。中国には秦以来、皇帝に忠告し、政治の得失について意見を述べる諫官(かんかん)という職務があり、唐代の諫官は毎月200枚の用紙を支給され、それを用いて諫言した。歴代の王朝に諫官が置かれたが、太宗のように諌官の忠告を真面目に聞き入れていた皇帝は極めて稀で、皇帝の怒りに触れて左遷されたり、殺される諌官も多かったという。
太宗は臣下の忠告・諫言を得るため、進言しやすい状態を作っていた。例えば、自分の容姿はいかめしく、極めて厳粛であることを知っていた太宗は、進言する百官たちが圧倒されないように、必ず温顔で接して臣下の意見を聞いた(求諫篇)。また官吏たちを交替で宮中に宿直させ、いつも近くに座を与え、政治教化の利害得失について知ろうと努めた。そして臣下たちもこれに応えて太宗をよく諫め、太宗の欲情に関することを直言したり(納諫篇)、太宗の娘の嫁入り支度が贅沢であるということまでも諫めている(魏徴の諫言)。太宗は筋の通った進言・忠告を非常に喜び、至極もっともな言葉であると称賛し、普通の君主では到底改めにくいであろうところを改めた。
また太宗は質素倹約を奨励し、王公以下に身分不相応な出費を許さず、以来、国民の蓄財は豊かになった。公卿たちが太宗のために避暑の宮殿の新築を提案しても、太宗は費用がかかり過ぎると言って退けた。太宗を補佐した魏徴ら重臣たちは今の各省の大臣に相当するが、その家に奥座敷すら無いという質素な生活をしていた。私利私欲を図ろうと思えば、容易にできたであろう立場にいながらである。
このような国家のため、万民のために誠意を尽くしたその言行は、儒教の精神からくるといわれる。中国では儒教道徳に基準を置き、皇帝は天の意志を体して仁慈の心で万民を愛育しなければならないという理念があった。また臣下にも我が天子を理想的な天子にするのが責務であるという考えがあり、天子の政治に欠失がないように我が身を顧みず、場合によっては死を覚悟して諫めることがあった。
ゆえに本書は、かつては教養人の必読書であり、中国では後の歴代王朝の君主(唐の憲宗・文宗・宣宗、宋の仁宗、遼の興宗、金の世宗、元のクビライ、明の万暦帝、清の乾隆帝など)が愛読している。また日本にも平安時代に古写本が伝わり、北条氏・足利氏・徳川氏ら政治の重要な役にあった者に愛読されてきた[2][3]。