長安から北京へ

感想です。

司馬遼太郎著、中央公論社刊「長安から北京へ」、昭和51年10月10日初版。「中央公論」昭和50年10月などに掲載したもの。街道をゆく、のシリーズではなかったんだ。昭和50年(1975)年5月に井上靖氏を団長とする日本作家代表団に参加した旅行記です。これは中国で文化大革命がまだ進行中で、帰国後に周恩来、毛沢東両氏が亡くなったような時代のことです。ですから、後ほど文化大革命四人組の一人として失脚した姚文元氏が代表団の帰国間際の中国側首脳として会ったりしています。
なお、wikipediaでの四人組 (中国史)によれば、『四人組は1977年7月の10期3中全会で、党籍を永久剥奪された。続く8月の11全大会では、1966年以来11年にわたった文革の終結と四人組の犯罪が認定され、また実権派として迫害・追放されていた党員の名誉は回復されて復職した。』ということのようです。
この当時の政治と色々との間柄についての司馬氏の見方、感慨、あるいは嘆きが全編にわたって散りばめられていると思います。

それはさておき、皇帝の権威の象徴というべき圧倒的な宮殿の豪華さなど、司馬氏の感慨はあるのだけれど、圧倒されるとかのことどもばかりで、私が期待した経済的にどうの、とかの些末なことは何も触れられていないのは残念でした。しかたないので、自分なりに長城の意味を経済的に見直すとすれば、近代経済学の発想を既に持った天才が実は居て、不況対策と失業対策としてフーバーダムではなくって、長城を作った、という仮説はどんなもんでしょうかねえ。

もう一つ、司馬氏は、中国が日本に対して軍事的に脅威だ、とかの最近言われるような事柄にはきっと、そんなことはないでしょう、未だかつてそんなことはなく、これからもない、と断言されるような気がします。それよりも、広大で多様な国内の統一を図るのと、しっかり生活させるのだけで精一杯です、とね。

主題とは離れると思いますが、この時代の日本人の老年者は、当然のごとく、軍事教練の経験者で、子供の空気銃を試し打ちして、練習なしで大人げなく命中させてしまう技量を保っていた、というエピソードは、実は私にとっては驚きなのです。身体に残るんですね。ぶっそうなことでも。

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